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2011.04.06 (Wed)

「大連立」議論をタブーとするべきではない。

問題によりてあるいは離れ、あるいは合する。これが政治家の態度であらねばならない。

この言葉は、明治の政治において、策謀家の代名詞として名をはせた政治家・星享の言葉です。「悪人」と称された彼の政治姿勢においては、一方において政策重視というものがありました。政治屋と政治家の境界線が不明確になりつつある現代、政策の選択を軸とした政治家の行動というものがひとつ大きな方針となってもよいのではないかと考えるのです。

東日本大震災後、与党・民主党と野党・自民党の間において、「大連立」構想が再燃しはじめました。しかし、この構想に対し、野党・自民党の執行部は拒否の姿勢を示しています。大連立については、賛成も反対もあるでしょう。

政権担当能力とはなにか。またその能力がないのであれば、補完するとはどういうことか。
政権担当能力を国民が育てるとはどういうことか。
大連立は、民主主義の死滅か、それとも政策遂行における究極の理想なのか。
政治の安定とはなにか。国家の安定とはなにか。

そのようなテーマを議論するときに、「大連立」は決して頭から否定されてよい政治作用だとは思いません。また、私達が自由と民主主義を愛する独立国家に生きる国民である限り、どのような政治テーマもタブーとすべきではなく、自由に物事を考える機会に豊かであることが、自由で進歩的な国家を創りつづけていく要件であることを忘れてはならないのだと思います。

この想いをひとつに、「日本を創っていく」ためにも、ぼく達の勉強会は、「大連立」について考えてみました。



ぼくが喋っているところで、明確に間違っている部分があります。それは27分程度のところで、「第1民主党が成立するきっかけは、中選挙区制導入のための政治改革により」と間違って発言してしまっています。「小選挙区制」のためです。間違って覚えているのではなく、喋っているうちに興奮して前後の順番を間違ってしまったのだと思います(笑)。しかし、間違いは間違いです。こんな簡単なミスを犯してしまい、誠に申し訳ありません。本当にお恥ずかしいかぎりです。政治経済学部を卒業して、現在は歴史学者の卵として勉強を続けている学徒とは思えません(恥)。ちなみに、ぼくは衆議院選挙においては中選挙区論者です。

大連立構想には、前例があります。
それは若槻内閣の時です。
満州事変後の政治情勢を整理解決するために、野党の代表(犬養毅)を総理にして、大連立内閣を結成しようと与党の中から構想されたことがあります。これは結局、蔵相・井上準之助に壊されてしまうのですが、とても大切な事例だと思います。

根本的に、新体制運動による近衛内閣の性格と、大連立とは違います。
権力の移行性と国家の安定性を、恐れず議論することこそ、この国の発展に寄与するものだと思います。

ぼく達の民主主義です。
ぼく達の祖国である日本を、護り、創り、発展させていくためにも、議論は恐れることなく、おもねることなく尽くさばなりません。

皆さんは、ぼく達勉強会メンバーの議論をどう感じましたか。
第2・第3・第4土曜日と勉強会を開催しています。
ご興味ありましたら、ご参加くだされば、幸いです。

最後に、戦後を築いた大宰相・吉田茂の言葉を紹介して終わりたいと思います。

民主主義の根底をなす思想は寛容である。敵と味方の確執ではない。己を知り己を愛し、また敵を知り、敵を愛する寛容があってこそ、民主政治が行われるのである。



■<自民党>「大連立」応じず…復興・復旧に閣外から協力へ
(毎日新聞 - 04月06日 00:03)

 自民党の谷垣禎一総裁は5日、民主党との「大連立」に応じない方針を固めた。大連立を巡っては自民党内で賛否が分かれており、菅直人首相が退陣する保証のないまま連立に踏み切れば、地方組織や支持者の理解を得られないと判断した。東日本大震災の復旧・復興対策については政府に協力するが、菅首相から入閣要請があっても応じず、数次にわたる11年度補正予算案の編成には野党の立場で協議に臨む構えだ。

 谷垣氏は5日、小泉純一郎元首相と東京都内で会談。小泉氏が「今は健全な野党のあり方をしっかり発揮すべきだ」と大連立に否定的な見解を述べたのに対し、谷垣氏も「まったくその通りだ」と同意した。谷垣氏はこの日、海部俊樹元首相とも会談したが、海部氏は「首相が(大連立に)本気かどうか見極めた方がいい」と助言した。会談後、谷垣氏は「政策のすり合わせのないところに連立はない」と記者団に明言した。

 自民党は子ども手当や高速道路無料化など民主党の「4K」政策を撤回して震災対策にあてるよう求めている。自民党幹部は5日夜「今は健全な与野党が必要だ。復旧中心の1次補正には反対しないが、2次補正以降は財源を厳しく議論する」と語った。【野原大輔】

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02:58  |  【 想う日本のこと 】  |  トラックバック(0)  |  コメント(0)

2011.03.30 (Wed)

たとえ国土の全てがなくなろうとも、日本は滅びない。

■両陛下、避難所訪問…膝つきながら被災者励ます
(読売新聞 - 03月30日 20:30)



 天皇、皇后両陛下は30日午後、東日本巨大地震の被災者約290人が避難している東京武道館(東京・足立区)を訪問された。

 震災後、両陛下が被災者を直接見舞われるのは初めて。

 福島第一原発の事故を受けて開設された避難所で、約270人が福島県から身を寄せている。両陛下は、畳が敷かれた道場を約40分間かけて回り、膝をつきながら「元気出して下さいね」などと励まされた。

 同県いわき市の古川裕子さん(32)の自宅は原発から30キロ圏外だが、8歳と2歳の子供の健康を案じ夫と共に避難した。皇后さまに「子供が遊ぶ環境はありますか」「よく眠れますか」と気遣われ、「目を見て話してくださり、優しい方だと感じた」と笑顔を浮かべた。


普段の生活のなかでは、天皇という存在を決して強く思うことはないと思います。
しかし、一年の祝賀行事やこのような国難の時にあって、私たち日本人は誰もが「天皇がおられる限り・・・」と想いをはせると思います。
私たち日本人にとって、天皇との結びつきは、世界で最も長い歴史を有する国に生きる中で、DNAの奥深くまで刻み込まれたものなのだと感じる時があります。

「国民のために祈る」そのお姿に、私たちは感動を覚えます。
どんなに天皇を批判していても、御前に出れば、自然と心服してしまう不思議な力があります。
たとえ、反天皇主義者が批判をし、屁理屈を述べ、強がったとしても、彼等も自然に心服してしまってきたことは、歴史が証明していることです。

たとえ、この国の国土のすべてがなくなったとしても、日本人がばらばらに離散することになったとしても、「天皇」という皇位が存在する限り、そこに日本人は寄り集まり、「日本」は続いていくのだと思います。

陛下が東北に巡幸なされることができる日が一日でも早く近づくことを願ってやみません。

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01:42  |  【 想う日本のこと 】  |  トラックバック(0)  |  コメント(0)

2011.03.04 (Fri)

内務省による教育行政の主導と「教育権の独立」

はじめに

 本発表は、第二次世界大戦開戦へと向かう日本が総力戦体制を構築するために幅広い大規模な教育改革を志向・展望した教育審議会において教育行政と内務省の関係性について考察するものである。特に、教育財政の政策課題を担当した整理委員会での議論の展開を明らかにすることを課題としている。敗戦前の文部省は「内務省文部局」 と言われるほど、内務省に教育行政の主導権を奪われていた。敗戦を迎え、戦後教育改革が展開されると、行政の支配から教育が脱却するために「教育権の独立」が叫ばれれるようになる。これはひとつ、文部省の立場からすれば内務省からの独立という意味を有していた。筆者は、戦後教育改革において「教育権の独立」を提唱・前進させた田中耕太郎の改革構想を通して、戦後教育改革の行政的側面からその思想系統を研究することを構想しているが、本発表もその研究の一環に位置づくものである。

 1937年の日中戦争の勃発により、日本は大規模な戦線を展開させはじめ、国力のすべてを戦争に向けなければならなくなる。1938年には国家総動員法が成立するが、教育においても「国家総動員教育」 の確立が求められた。社会世論においては、近衛文麿を指導者として国家構造の抜本的な改革を求めていた様相であった。後に、大政翼賛会へと繋がる「新体制運動」である。これと連動するように、教育においては、抜本的な構造改革のために強力な審議機関の設置が求められ、教育審議会が1937年に設置される。だが、「集中性」「刷新性」という改革テーマが社会的に求められていたにも関わらず、教育やその社会的構造の硬直性を改革することは容易ではなかった。それは、近代国家を形成する官僚組織の行政機能の大部分を掌握していた内務省の権力性が強大だったからである。教育審議会では、国力総動員に向けての構造改革と共に、内務省と教育行政の関係性を再編成するという目的を明確に有し、政府に対する答申案を作成していった。戦後教育改革においても同様に「内務省からの教育行政の脱却」が唱えられたことを考えれば、強力な改革号令のもとでも、内務省の力は残存していたことになる。そして、教育行政の側面からみれば、戦時期教育改革においても、戦後教育改革においても、議論された改革テーマが共通していたことに注目できる。その視座にたてばこそ、「教育権の独立」の本義が理解・解明できると考える。

 本発表では、第1に内務省と教育行政・文部省との関係性を明らかにし、第2に教育審議会の概要を整理する。最後に、この関係性をめぐり、教育審議会内における教育行政体制改革構想を担当した整理委員会での議論の展開を明らかにする。このような教育行政体制改革に関する議論の展開を分析することにより、敗戦前における教育行政改革の課題とはどのようなものであったかを明らかにすることが課題である。戦後教育改革においてGHQや田中(耕)をはじめとする日本側教育改革者たちによって提唱された「教育権の独立」のためにの改革構想は、すでに教育審議会において議論されていたということを明らかにするのが、内務省と教育行政との関係性を題材にした本発表の目的である。


第1節   内務省が主導した教育行政


 「民主化」「戦前教育の転換」を目的とした戦後教育改革を担った改革者のひとりである田中(耕)は、明治以来、文部省が全国の教育を行政の側面だけでなく、教育内容を通して国民思想の動向にまで、中央集権的な官僚機構の首脳として監督し、支配した 、と批判した。しかし、一方で、地方教育界に対する文部省の影響は、内務省の下風に立たされていたと指摘する。


 府県庁の官僚は、課長や部長の地位にあって、地方教育に対し指揮命令をし、官僚風をふかせ、教育界に対してはなはだ尊大であった。(中略=引用者)これらの官僚は内務省系出身のもので(中略=引用者)彼等は教育には全くの素人であり、一般的に教育や教育者の使命についての理解を欠いていた。(中略=)教育者もまた技術者として内務系官僚の頣使に従わなければならなかった


 同様の批判は、雑誌批評でも展開されていた。英文学者であり、評論家でもあった中野好夫は、『世界』第155号での寄稿にて、文部省を支配していた実態を「文教府への旧内務官僚のナダレ込み」 と論評している。


 明治以来、言葉の真の意味で文部省が日本教育の真の支配者であったことなどは、少なくとも敗戦までただの一度としてなかったのである。(中略=引用者)敗戦までたしかに文部省というものはあり、文部官僚もあった。だが、彼等が支配しえたのは中央だけで、地方の現状は完全に内務官僚に急所を抑えられていた。いわば文部官僚は手足なしの冷飯官僚であり、それがあの文部省と文部官僚特有の卑屈な、そして御殿女中的劣等感にみちた雰囲気をつくり上げていたのである。(中略=引用者)地方における文部省の支配の如きは、完全に間接的にしかも第二義第三義的支配にすぎなかったのが実情であった


 なぜ、文部省が「内務省の出店」 と変質したのかといえば、時々の文部大臣に就任する人物の政治的影響以上に、中央文部省員と地方官の交流人事が大きい原因であっただろう。内務省による「ナダレ込み」が起きた人事を受け入れざるを得なかった原因は、内務省が地方政府の人事と財政・監査を掌握していたからである。内務省の設置は国家財政を取り仕切る大蔵省の設置より遅く、1873年11月であった。しかし、その組織の発展を経て、幅広い内政に関する権限を手に入れ、「国民生活の抹消にまで国家の支配を貫徹させる回路としての役割」 を果たしていった。古川隆久が「そもそも従来内務省あるいは内務官僚の全体像に関する研究は、対象の大きさゆえか存在しない」 と指摘するように、その巨像の詳細は未だ究明されていない部分が多い。決して内務省本省の人員は多いわけではなかったが、その指揮系統には地方自治体(府県等)の吏員も含まれていたため、監督官庁として全国にその支配を及ぼすことができたのである。帝国の首都にして、大都市であった東京市などに対して、内務省は行政監察を実施することができるなど、行政のトップに立っていたのである 。総力戦体制へと向かうなかで体制翼賛会が成立するが、国力の一元化を求めた同会の運営においても、内務省の地方組織への支配力から、その実態は内務省の力に依存しなければ同会は全く機能しなかった程である 。

 また、内務省の官僚は、その他の官庁の官僚と違って、国民を統治する側としての意識が強かったといわれる。内務省の官僚は「牧民官」と表現されることがある。『菅子』の章「牧民」から取られた言葉であるが、「民を牧う者」という意味である。植松忠博は、内務省の官僚が終始とっていた行政官としての姿勢を「内務省の役人は、霞が関から人民を見下していた諸官庁の役人とは違って、率先して府県に下って、日常に親しく接する人民の訴えを取り上げて、国政に反映させるべく努力しようとしたのである」 と評している。この積極性を体現したのが、内務省の「訓令」であった。訓令は上級機関から下級機関に対して出されるものである。1929年10月に内務省は各府県に対して、次年度予算決定の際には出来るだけ緊縮方針を取ることを要求したが、その具体的内容として「学用品の節約、師範学校学級整理、中等教員初任給の引き下げ」 等をあげていた。また、1930年5月には、内務省は①「なるべく高等小学校を廃して之を実業補習学校に合併せしむること」、②「教員、学級共に極力整理緊縮の方針をとること」 等という内容の訓令を発した。教員への給与不払い問題が起こるのは、この頃である。このように、教育行政に対する干渉、もしくは文部省と内務省の行政責任範囲の重複が、文部省や教育関係者たちに行政刷新を希望する動きへとつながっていく。平井貴美代が「実際のところ、内務省が支配する府県の教育行政全般に対してどれほどの影響力を及ぼしたのかは評論が分かれるところ」 であると述べているが、少なくとも教育行政を担当する文部省がより自主性を発揮するために、補助金や訓令等の行政手段によって「地方行政系統の全面的な掌握を既成事実化」 しようとした内務行政と衝突せざるを得なかったのは、自明のことであっただろう。


第2節   教育審議会の総動員性と民主制

 教育審議会は、日本の教育政策を刷新するためにその内容を審議する機関として、1937年12月10日に勅令第711号によって内閣に設置された。教育審議会の設置に際しては、衆議院において「教育ノ制度及ビ内容ノ革新ニ関スル建議」がなされ、貴族院において「政教刷新ニ関スル建議」がなされた。文部大臣のもとに設置されていた教学刷新評議会においても「政府ハ我ガ国内外ノ情勢ニ鑑ミ、教学ノ指導竝二文政ノ改善二関スル重要事項ヲ審議スルタメ、内閣総理大臣統括ノ下二、有力ナル諮詢機関ヲ設置セラレンコトヲ望ム」と建議し、教育審議会が設置された。教育審議会官制を公布した際、天皇の「上諭」が付されていたことは、この審議会に対し、改革の実行力を政府が期待していた何よりの証左であろう。1937年12月10日の発足から1941年10 月13日(廃止は1942年5月9日)までの約4年間に総会を14回、初等教育・中等教育・高等教育・社会教育・教育行財政の5つの政策課題を議論する 30名の特別委員会が61回、さらに具体的に答申案を作成する整理委員会が169回も開催された。内閣総理大臣の諮問機関としてのこの審議会は戦前最大規模の教育に関する政府会議であり、政府各機関、政界各層から委員が選ばれた。審議会の最高責任者である総裁は内閣総理大臣の奏請により天皇が任命した。政治家、官僚以外にも、東京帝国総長をはじめとする官学関係者たちなどが任命選出されている。

 大久保利謙と海道宗臣が監修した『近代日本教育資料叢書 資料編三 教育審議会諮問第一号特別委員会整理委員会会議録 第14巻 第19輯~第 21輯』の解題では、教育審議会の制度欠陥として「(イ)諮問機関の長が必ず政府の代表者であり、諮問機関の自律的行動と責任が確保されにくいこと、(ロ)諮問事項や調査審議経過などについての文書が公開されず、デモクラシーと行政を結合させるために設けられた諮問機関という制度を無意味なものにしていることが指摘されている(蝋山政道『行政組織論』昭和五年、日本評論社、二九七~八ページ)が、これらの点は教育行政の分野における諮問機関の特徴としても妥当するものである」 と指摘している。まさに官製改革主体の何物でもなかったわけであり、国力の集中を図る情勢に沿って、教育改革の答申がなされたのは当然であっただろう。

 しかし、教育審議会で出された多くの発想は、決して単純な外的システムの改革ではなく、戦後民主化・戦後教育改革にもつながる革新的なものであった。少なくとも、教育審議会の審議全体に貫かれていた特徴と指摘してもよいことは、「教育機会の拡充」というテーマである。教育審議会が審議・決定した改革をあげていくと、まずは、①小学校を国民学校と改称し、その義務教育年限を8年制としたことがあげられる。6年制の義務教育年限を2年間延長することは、長年の日本教育界の悲願であった。次に、②各種段階の学校に対する入学範囲を広範化させたことも意義が大きい。とくに、女子のための女子高等専門学校制度や大学令による女子大学の創設などは、その教育機会の拡充という意味で大きな意味があっただろう。また、③就学猶予免除規定から「貧窮」という事由を除去し、国民皆教育に向けた国家の意思を示した。反軍政治家として名をはせていた安藤正純委員は、「ドンナ階級ノドンナ困ツテ居ル人ニデモ、唯ノ一人ニデモ教育ヲ施サナケレバナラヌト云フ是ハ国家トシテノ義務ガアリ、又是ハ国民同朋トシテノ責任モアルト思フ」 である、と大変な熱意を示していた。国家のために「資本」としての人材を育成するという観点ばかりでなく、このような観点が審議会の議論で展開されていたことも、また事実なのである。国民学校令においては、盲・聾以外の障害児のために教育サービスを提供することも提案している。社会事業としての政策であれば内務省がその権限を有していたが、教育政策の責任であるとの姿勢を示したことは、文部行政のあり方を転換する歴史的意味を有するものであった。このような教育審議会が提唱した改革点を捉えて、大内裕和は、教育審議会の委員であった阿部重孝の研究を通じ、「社会的流動性の増大を民主化の指標とる戦後社会の文脈からいえば、戦時体制期はそれがいかに国家主導で行われたにせよ教育における『民主化』の進展であった」 とさえ評している。寺崎昌男もまた教育審議会が果たした役割の二重性を次のように指摘する。


 審議会において、先行する近代的諸改革構想が(中略=引用者)ファシズム教育の全体制の構築の前提をなす教育体制論の集積として位置づけることができる。しかし第二に、以上のような結果にもかかわらず、(中略=引用者)この時期の教育改革論者の改革論は、少なくともその発想や選択の動機において、教育の民主化と拡大への希望をもって着想され主張されたということが(中略=引用者)戦後の教育改革への先駆性ないし連続性をもって位置づけられるのである


 教育審議の実態が国家総動員のための準備装置であったという指摘は、その委員の構成によくあらわれている。教育審議会の委員・臨時委員74名のうち16名が新体制運動の象徴的人物であった近衛文麿を支える教育改革同志会のメンバーであったのである。彼らは「文部行政による地方教育および学校の直接的統制への変革を志向する」 改革観を有していた。この教育審議会がすべての改革課題を議論し終わって閉会したのは、新体制運動内閣であった近衛文麿内閣が倒閣し、日米戦争へと突入することになる東條英機内閣が成立する時であった。


第3節   整理委員会における教育行政改革議論の展開

 教育審議会の答申案作りは、総会から特別委員会に付託された。特別委員会では政策課題毎に総括的な審議を行い、さらに具体的な答申原案の作成・審議を整理委員会に担当させた。整理委員会は特別委員会委員の中から選任された内部会議のようなものであった。整理委員会は、第17回特別委員会(1938.6.17)で林博太郎委員(伯爵)の提案によって設置された。整理委員会で作成された答申案が特別委員会、総会へと上程され、可決した後、政府に提出される形となった。教育改革の具体的構想を討議したのが、この整理委員会であったので、本節ではこの委員会を取り上げる。また、総動員体制を仕上げる教育審議会最終年の1941年における教育行財政改革に関する議論のみを取り上げる。教育行財政が実質、内務省に支配されているという認識のもと、教育行財政体制をどのように刷新しようとしたのかその外形システムの革新論を明らかにすることは、戦時体制へと移行していく時期の教育行政史研究として重要な意味を有すると考える。

 1941年は、日本の大陸における戦線が膠着状態に陥り、士気低下を防ぐ軍紀建て直しのため、陸軍大臣東條が戦陣訓を通達したことから始まった年となった。教育行財政に関する整理委員会は、1941年6月20日から始まる。第1回目の会議には、総裁の鈴木貫太郎、特別委員長の田所美治、整理委員長の林をはじめ他11名の委員で構成された。また、文部次官の菊池豊三郎を幹事長とし、文部次官の田中義男、有光次郎、内山良男、加藤恂二郎の4名が幹事として参加している。

 第1回会議(1941.6.20)では、内務省と文部省の人事協定に関する質問が冒頭部分で出されている。基本的な文部省の組織体制の課題認識を整理した後、財政学者であり早稲田大学第4代総長であった田中穂積委員が積極的に会議をリードした。田中(穂)はその発言のなかで、文部省は省内に教育行政に関する調査研究や企画を総合的に判断できる独立した高等官を、陸軍の教育総監・司法省の検事総長や大審院長のように設置するべきではないかと提案した。その組織改革にあわせて、文部省は他省庁との人事交流を避けるべきであると指摘する。「文部行政ヲ首尾一貫シテ」「文部行政ノ徹底」 を図るために、特に内務省との関係性を見直すべきだと述べている。しかし、中央文部省が地方教育行政関係者の人事も一括して統制すべきであるという前提を信じながらも、経験もない若き中央の文部官僚が地方教育の責任ある地位につくことには反対している。田中(穂)の発言で注目できることは、新しい教育行政制度を構築するうえで、「文部行政ノ徹底ヲ期スルト云フコトカラ、例ヘバ鉄道省トカ或ハ徴税トカ云フ役所ノヤウニ『プロック』ニデモヤル」 ことにも反対していることでる。ブロック制に分けられた行政圏を設定するよりも、中央と地方との交流を促進すべきであると述べている。田中(穂)の意見を受けて、臨時委員であった東京農業教育高等専門学校長の上原種美も、教育のあり方から考えて、「文部省ト云フモノヲ各省ノ外二置イテ(中略=引用者)文部大臣ノミ獨リ内閣二超然トシテ」 置かなければならないと提案する。そして、現実には教育政策の方針を定める機関を、文部省の支配に入らせず、内閣総理大臣の直接委員会として設置すべきであると述べている。しかし、上原は田中(穂)と異なり、教育行政の弊害を是正するためにブロック化が必要であると訴える。会議では、これら「企画能力を有する独立した教育行政機関の創設」と「ブロック制の導入」が主な議論として展開されている。ブロック制が議論にあがる理由は、中央と地方をつなぐ督学官制度の実態にあった。田所も、督学官制度を実態ある効率性高いものにするために、ブロック制に賛意を示している。それに対し、貴族院議員の下村宏は督学官の数を増やせば問題は解決できると指摘する。文部大臣も経験した枢密顧問官である松浦鎮次郎については「地方『ブロック』ノコトハ以前ニモサウ云フコトヲ能ク考ヘタルコトガアル」 としたうえで、地方教育の財源を地方自治体に依存している以上は実現が難しいと、難色を示している。問題は、地方自治体の財政と人事を一切にわたって内務省がその権限を掌握しているという点である。この内務省との関係性から脱却するためには、督学官や教育行政官の地位を法的にもより向上させなければならないと、文部次官を務めた赤間信義や田中(穂)も主張していた。教育審議会における教育行財政に関する課題意識の抽出は、この第1回会議でほぼ出し尽されたと言ってよい。

 第2回会議(1941.6.25)では教学局の存廃論が議論され、第3回会議(1941.6.27)では社会教育行政に関して、第4回会議(1941.7.2)では督学官制の実態と学校経営に関して議論が展開された。第5回会議(1941.7.4)では、勅令によって設立された別の審議会である科学振興調査会による教育改革決議が紹介されている。科学振興調査会もまた、「文部省二強力ナル学術行政ノ中枢機関ヲ設置スルコト」「学術振興セシムル為ニハ現在ノ行政機構ヲ以テシテハ甚ダ不十分ナルヲ以テ新二強力ナル部局ヲ文部省二設置スベシ」 と決議しているのをみれば、当時の教育行政の問題がどこにあったかが容易に理解できる。第6回会議(1941.7.9)では、教員人事の調整や文部省の業務内容について意見が交わされた。第7回会議(1941.7.11)では、校長人事や文部省の宗教政策を支配する内務省との関係において「文部省ハ内務省二餘リ遠慮シナイデ、自分ノ受持ッテ居ル範囲ハ飽マデ今後徹底スルヤウニ」 と委員から文部省に対して批判がなされた。第8回会議(1941.7.16)では冒頭に、会議に内務省関係者が出席するように下村が要求を行った。第9回会議(1941.7.18)においても、内務省との関係性が議論として取り扱われている。地方行政や地方政治家が地方教育に影響を及ぼす「弊害」 が甚だしく、その是正を阻害しているのは、行政施策を実施する上で常に内務省の「イデオロギー」 であると批判があがった。この内務省の影響力の現実をとらえて、臨時委員の東京女子高等師範学校長であった下村壽一は、教育政策実施の効率性をあげるために、地域的に2、3の府県がブロック行政として連合する「府縣教育組合」 の創設を提案している。様々な委員から、内務省から教育行政の権限を教育行政機関に移行するべきであると意見が出され、「地方教育廰」 という言葉も会議で使用された。会議の結果、以下の決議が確認されている。


一、 全国ヲ数区二分カチ之二督学官ノ出張所ヲ置キ、地方ト本省トノ密接ナル連絡ヲ保タシムルコト
二、 地方視学官、地方教学官、青年教育官ノ任免ハ文部大臣ノ権限トナシ、且ツ其ノ地位ヲ高メ増員優遇スルコト、視学ハ之ヲ増員優遇シ適材ヲ適所二置キ教育ノ実効ヲ舉ゲシムルコト
三、 中等学校長ノ異動任免二付テハ全国的二考慮シテ適材適所二置き現行ノ取扱改ムルコト



 第10回会議(1941.7.20)では、教員の待遇問題に関して議論された。第11回会議(1941.7.25)では、先の会議での、教員の待遇問題の議論が引き続いて展開され、内務省が公立学校職員に対する待遇管理等を行っていることが問題とされた。第12回会議(1941.9.12)では、これまでの議論を通して作成された「教育行政及財政二関スル要綱案」が冒頭で文部事務官の内山良男によって朗読されている。そこには、「新設」「強力」「緊密」「徹底」「整備」「拡充」という言葉が並んだ。地方教育行政機構に関しては、ブロック制が採用されている。第13回会議(1941.9.17)は秘密会議であったため、議論の詳細が残されていない。第14回会議(1941.9.19)では、第12回会議で示された要綱案を修正審議し、更に付け加える前文の審議を行っている。整理委員会最後の第15回会議(1941.9.24)は、要綱案の実施を政府に完徹させるために、天皇に対して教育改革を実施する責任が政府にはあるのだという「教育尊重二関スル建議案」を提案・審議している。そして、総会も閉会になるのだが、日米開戦不可避と覚悟した近衛文麿は、この教育審議会による「新体制」のための提案を完全実現することなく、翌10月18日に内閣を総辞職した。


おわりに

 以上、本発表では、総動員体制という国家の方向性を教育の面で導き出す大きな役割を担った教育審議会における教育行財政のあり方に関する議論を通して、当時の教育行政の課題がどのように捉えられていたのかを明らかにした。まず、教育行政を主導する内務省の実態を明らかにした。地方自治体の財政と人事を掌ることで国家内政の権限を一手に掌握していたことが分かった。教育行政もまた内務省の主導に拠らざるをえなかったのである。次に、戦前の教育会議において最大の規模を誇った教育審議会の組織特性を史的考察した。教育審議会は、総動員体制への準備装置という役割を担いながらも、同時に戦後教育改革に通ずる「民主性」が見出されると結論づけた。最後に、教育審議会において具体的な政策課題への答申案を作成した教育行財政に関する整理委員会での議論の展開を整理した。

 教育審議会がその教育行財政に関する議論のなかで問いかけた課題は、戦後まで解決されることはなかった。内務省は戦後まで行政官庁の頂点に位置し続け、文部省による行政体系は一体性をみせることはなかったのである。戦後、文部大臣として教育改革を主導した田中(耕)は、「教育権の独立」を掲げた。その中身は教育行政の側面でいえば、「内務省からの独立を果たす教育行政の独立」と「地方教育行政の一体的な独立」であった。田中(耕)は、教育行政体系を「ブロック制」によって変革しようとした。田中(耕)はそのブロック制の設計基礎単位を帝国大学を中心とする地方を一体的に捉えた学区案に求めたが、同じような制度理論は教育審議会でも最重要政策課題として議論されていたことがわかった。それら共通性を見出したとき、教育審議会による改革性と戦後の教育改革は、その改革性において類似性・継続性があったと指摘してよいのではないだろうか。教育行政の側面からいえば、戦後教育改革は突如の占領軍の登場だけに拠るのではなく、戦前から既に戦後と同様の問題認識が形成されていたと考えるべきだろう。

 では、その改革性は教育審議会においてはじめて現出したものであるのだろうか。内務省による教育行政の支配は、既に前時代から存在していたであろう。地方教育行政のブロック化は、戦後においては田中(耕)の言を借りれば、「明治学制」を模範としていた。そうであるならば、明治の学制が失敗して以来、この再現に教育行政のあり方を一方に求めていた政策志向の系譜が存在していたと考えてもよいのではないか。教育行政の外形システムをどのように改革しようとしていたのか、その史的経過を今後、整理・研究していきたい。


(参考文献)

・中野好夫「教育を支配するもの-いわゆる「内務省文部局」について-」『世界』155、1958年。
・小澤熹「教育審議会による国家総動員体制下の教育改革」『講座日本教育史4 現代Ⅰ/現代Ⅱ』第一法規出版、1984年。
・田中耕太郎『教育基本法の理論』有斐閣、1961年。
・相澤煕『日本教育史談』学芸図書出版、1952年。
・河島真「書評:内務省史研究会編『内務省と国民』」歴史科学協議会編『歴史評論』595、校倉書房、1999年。
・大杉覚「首都経営改革の源流-内務省昭和十年東京市行政監察を中心に(上)」首都大学東京『法学会雑誌』48(2)、2007年。
・広瀬順皓「官僚の日本近代史28 大政翼賛会と内務省」『本』講談社、2008年。
・植松忠博「内務省の思想と政策 -牧民官意識と社会事業行政を中心に-」神戸大学経済経営学会『国民経済雑誌』174(3)、1996年。
・平井貴美代「戦前期学校経営改革における『地方の位置』」三上和夫・湯田拓史『地域教育の構想』同時代社、2010年。
・新里孝一「『内務省訓令第十七号』の政治的考察 -『翼賛体制』における内務省地方局の『農村自治』構想②-」『大東文化大学紀要<社会科学>』35、1997年。
・平原春好「解題」『教育審議会諮問第一特別委員会整理委員会会議録 解題』宣文堂書店、1971年。
・大久保利謙・海後宗臣監修『近代日本教育資料叢書 資料編三 教育審議会総会会議録 附録 第2輯』宣文堂書店、1970年。
・大内裕和「教育における戦前・戦時・戦後 -阿部重孝の思想と行動-」山之内靖、ヴィクター・コシュマン、成田龍一編『パルマケイア叢書4 総力戦と現代化』柏書房、1995年。
・寺崎昌男「概説」『講座日本教育史4 現代Ⅰ/現代Ⅱ』第一法規出版、1984年。
・大久保利謙・海後宗臣監修『近代日本教育資料叢書 資料編三 教育審議会諮問第一号特別委員会整理委員会会議録 第14巻 第20輯』宣文堂書店、1971年。
・大久保利謙・海後宗臣監修『近代日本教育資料叢書 資料編三 教育審議会諮問第一号特別委員会整理委員会会議録 第14巻 第21輯』宣文堂書店、1971年。
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2011.02.15 (Tue)

【百人会で考えたこと】 リーダーに必要な能力。

先日、東京自民党政経塾の飲み会で知り合った方にお誘いいただいた百人会という勉強会に出席してきました。
参加されていた方々は、多士済々。
非常に面白い会でした。

勉強会が終了後、飲み会に。

3月に、龍馬プロジェクトのスタッフの方に、修学院でご講演いただきたいと思っていたので、簡単な打ち合わせも含めて懇親会に、という感じです。

出席された其々の方々の「志」を拝聴させていただき、とても勉強になりました。
皆さんのお話を聞き、そして、いまの政権やこれまでの政治の在り方をみていて、チャーチルの言葉を思い出しました。



リーダーには、実現しなかった時に、ついてくる者たちが納得いくように説明する能力が要求されるのだ。



人間なのですから、必ず失敗はあります。
失敗が存在しないということは、現実論としてありえないと思うのです。
ですから、失敗したときにも、なお支持者がついてくるか、そういう力がリーダーには必要です。

いま、自分たちが志を述べているのは自由です。
しかし、責任ある地位についたとき、その志を達成できるか、または失敗したのをいかにリカバーできるか、そういう鍛錬を積むことが、これからの修学院のカリキュラムに必要なのかな、と思いました。

民主党のマニフェスト修正、
官邸の迷走の阻止、

これらもすべて、菅総理の「説得力」と「突破力」にかかっています。
民主党を支持していませんが、日本の、日本人の総理大臣なのですから、できるだけ堂々とした政治を行ってほしいと思うのです。天皇陛下より総理の職を任命された方に対して、誹謗中傷もしたくありません(基本的に、そして、できるだけ)。ぼくもひとりの日本人なので。


まさに、いま「政治への信頼」という意味で、政治屋ではなく、政治家による「政治の再建」が求められているのでしょう。それは決して、「失敗」を隠そうとすることで果たせることではないと思います。
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2010.12.02 (Thu)

国会開設120周年式典にみる民主主義の崩壊。

 昨11月29日に、天皇皇后両陛下のご臨席を賜り、国会開設120周年式典が挙行された。しかし、この民主主義議会主義の確立を再確認する極めて重要な式典に多くの国会議員が欠席したのである。現在衆参両議院で721名が議席を有しているが、式典に出席したのはうち370名であったそうである。独自の歴史観を有する共産党に所属する議員15名が欠席したことをあえて除外したとしても、本式典に欠席したのは330名以上にのぼる。学級崩壊をしている小・中学校の教場ではあるまいし、出席率が約5割しかないというのはどういうことか。報道の多くで、式典に欠席した議員の多くは、その欠席理由を「地元の選挙活動に出ていて・・・」と説明している。しかし、国民の税金から歳費をもらっている国会議員の職務は、何よりも国会を中心とした政治的公務のはずである。選挙運動は個人の活動にしか過ぎない。考え違いも甚だしい愚挙であると断じざるを得ない。このような国会議員が国民の代表者であり、国権最高機関である国会に議席を有しているのかと考えると、「政治主導」を標榜した近年の「政治改革」や「政権交代」とは何であったのかと再考せざるを得ない。全政党は式典に病欠等の理由以外で欠席した議員名をすべて公表すべきである。国会軽視はなはだしいこの事実は、懲罰対象に値する。党籍除名にも値すると考える。この現実を、「民主主義の崩壊」として厳しく受け止めるべきである。少なくとも、私は国会を軽視するような人物を、私たち国民の代表者として国会に送りたいとは思わない。



 だが、式典にみる国会議員の質低下はより恐ろしい現実を私たちに突きつけている。報道によれば、式典にご臨席賜る天皇皇后両陛下をお待ち申上げるために起立されておられた秋篠宮同妃両殿下に対して、「早く座らなければ、自分たちが座れないだろう」という野次を、民主党所属の中井洽衆議院議員予算委員会委員長)が飛ばしたというのだ。中井氏は、報道事実に対し、「副議長に対し、秋篠宮殿下に早くお座り頂かなければ失礼に値するのではないか」などと釈明している。この釈明理由が二点三点していることも、付記しておかなければならない。しかし、この釈明は正しいだろうか。発言内容の事実前に、両殿下が両陛下を起立してお待ちされていることが、何故「失礼」に値するのか。全く説明になっていない釈明だと断じざるを得ない。この問題は水かけ論で終わる可能性がある。しかし、国会を構成する議員のひとりにしか過ぎない人物が、国民統合の象徴であらせられる天皇陛下をはじめとする御皇室に対して、全く礼を失った態度をとったということに、激しく私は憤りを感じる。そして、この事件に示される性質のすべてが、民主党という政党を表現しているのだろう。小沢一郎氏が民主党の幹事長であったときに起こった、中華人民共和国の次期指導者である習近平氏の天皇陛下との会見事件の時も、天皇という御存在をただの「政治の道具」と見なす見識を広げていた。民主党が示す「政治主導」とは、自分の政治権力を何物にも超越する優越感を現実化させていくという誤解・傲慢のものであるのではないだろうか。民主党は、我が国の「民主主義」を破壊していると私は感じる。

 政治権力の増長という意味では、この国会開設120周年式典事件だけではない。本年7月27日に、埼玉県入間基地で行なわれた納涼祭にて、民主党所属の松崎哲久衆議院議員が、応援に対応した自衛官トラブルを起こしている。松崎議員は自衛官の胸座を掴みながら恫喝し、さらには「俺を誰だと思っているのか」などという暴言の数々をふるったという。この事件においても、水掛け論が続いている。しかし、松崎議員の発言に、民主党政権の「権力のあり方」に対する意識の現われをみてとることができないであろうか。民主党政権が目指す「政治主導」の本質はこのように増長慢しているのだ。



 次々と起こる政治的課題に対し、何の解決策も見出せずに先送りする民主党政権(鳩山内閣菅内閣)。この政党政権を早く倒さなければ、一日一日と早く国が滅ぶ道へ突き進んでいるのだと、私たち有権者は気づかなければならないのではないだろうか。

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「やじでない」民主議員が釈明 (時事通信社 - 12月01日 17:03)

 11月29日の「議会開設120年記念式典」で秋篠宮ご夫妻が起立していた際、民主党衆院議員が「早く座れよ」と語ったとされる問題について、中井洽衆院予算委員長は1日、国会内で記者団に対し、立っていることに疑問をはさむ発言を自らがしたことを認めた上で、「やじではない」として、ご夫妻に向けた言葉ではなかったと釈明した。



 自民党議員らによると、中井氏は参院本会議場の壇上でご夫妻が起立して天皇、皇后両陛下の入場を待たれていた際、「こっちも座れないじゃないか」などと発言したという。



 これについて、中井氏は「(式典の)行程表にはお座りになると書いてあって、一同着席となっている。どうしたんだろう、宮様に伝えていないのかね、ということを(周囲の議員に)申し上げた」と語った。
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2010.11.18 (Thu)

【公】という言葉のはじまり。   ~ 大和の民とは天皇を長とする混血多文化社会のこと ~

先日、1940年代に早稲田大学で教鞭をとっていた川邊喜三郎氏の研究を紹介したが、先の研究の本題は「天皇制・家族制の科学的研究」である。

日本における家族制度と天皇制の基本因襲性として、川邊はこのように指摘する。





我が社会国家の有史以来の特質を理解するため、古き伝説と記録とを辿ってその特徴的全貌を瞥見すれば、古代に於ては我が国は皇室を中心とする氏族制社会であり、中世以後漸次氏族的勢力が衰へて家族本位となり、更に降って最近明治維新以来欧米文化の浸透に因って、社会単位としての個人の立場が漸次重きを加へ来つて、家族的遺風と個人的独立との混合体としての社会制度を樹立持続し来ったのである。先づ国民は常に皇室を宗家とする一大家族的大社会と考へられ、従って皇室の祖先は又一般国民の大祖先であり、国民はそれぞれ皇室の大祖先から分岐した支流に當るものと信じられた。故におほやけ(大宅)と云う言葉が古くは往々宗家たる皇室の意味に解せられ、又転化して天皇の意味にも用ひられ、後に至つて公儀即ち政府の意味にも転用されるに意味にも至ったのである。一般国民にはその血縁の近き家族の一団である種族の分派系統を表示するため氏が用ひられ、又地位を表すために姓が用ひられた。そして民にはそれぞれ氏上と称する族長があって氏族を代表統治し、天皇の命令は大氏の氏上に伝えられ、大氏の氏長は更にそれをそれぞれ部下の小氏の氏上達に伝達し、かくして政治は血縁単位の構成組織を以て行われた。氏上は後に長者とも呼ばれ、近世に至っても徳川将軍を源氏の長者と呼んだのはこれが為である。然るに皇室は全国民の宗家で他にまぎらはしきものが無いため、皇室自体には特別の姓氏が附せられず、今日に至るまでただ各天皇の御名のみ表示されて来たのである。

(p.19-21)

そして、この天皇を一大家族の長に仰ぎ見る社会的伝統はどのように形成されたのかという歴史に着目しなければならないと指摘する。







「忠孝は人倫の本なり」と云ふ社会的道徳信条こそ、真に基本的なるものものの中最も基本的な我が国民の伝統慣習であり、そして又これに関連して生じた醇風美俗の類は、悉く我が国独特の家族主義道徳と信仰とが基礎を成す社会規範である。

我が国にかくの如き世界異例の伝統慣習が生じたのは、主として我が国の大陸から隔絶した孤島自然環境の結果である。海外との交通が不便なため一方外部からの侵略を蒙る危険性が少なかったと同時に、又異種文化との接触が少なかったので、二千六百年の長期間に特殊の文化的発達を遂げたのである。個人と家とが一体化し、我が家と郷土とが合体し、引いては郷土と国との不可分的観念にまで広大して考と忠とが一体不二となり、遂に忠孝を如実に人倫の本と信ずるようになったのである。そして多数の外来帰化人も一度この国土に定住する時は、遠からずこの伝統道徳中に混入同化してしまった。古くは日本民族神別即ち神代の神々の子孫皇別即ち皇室からの分派及び蕃別即ち外来帰化人の三種族に大別された。(中略=引用者)前二者は元来の大和民族であり、これに対し第三の蕃別が実に全体の約三分の一を占め、それは種々の人種や種族-例え熊襲隼人土蜘蛛・蝦夷・その他支那・朝鮮・南洋方面からの外来者-をも含めた帰化人であつたが、彼らもいつしか皆前二者と同化融合して、忠孝を基本因襲道徳とする大和民族となってしまった。一例を挙げれば、赤穂義士中の傑物武林唯七は支那からの帰化人武林の子孫であったと云う。

(p.30-32)


おそらく我が国は、多くの地域から渡来した民族が、本来日本列島にいた日本民族と混血を繰り返しながら、「日本」というものを創っていったのだろう。文明圏として、南鹿児島琉球列島~越(大陸南部)、モンゴル~朝鮮~北部九州、山陰~北陸中部、などのエリアがあつたことが分かっている。たとえば、スサノオ信仰が強い場所は朝鮮渡来の民族が強い場所だと言われている。朝鮮渡来の民族(主に百済系)としては、大和朝廷に仕え、物流と水と鉄産業、稲荷信仰支配した秦氏がいる。中国・九州地方を支配した大内家の先祖は、百済王でもある。



では、そのような血を受け継ぐ現在の日本人が、朝鮮人かというと、それもまったく違う。



現在の神社にある「狛犬」の由来は、「高麗の犬」である。

だからといって、これが朝鮮のものかといえば、そうではない。

後にシルクロードが示すように、ローマから中東、アジア大陸半島を渡って、地続きに、または海を渡って、流れてきた文化やヒトすべてが「渡来」であり、「帰化人」なのである。そして、それらは「日本」となり、「日本人」となった。愛着と愛国心をもって。



しかし、日本がそのような寛容の心で外に開いていれば、一枚ずつ皮をはぐように、日本の国益を外から侵略する。そして、あえてそのような外患を誘致しよとしているとしか思えない現在の社会的指導者たちの存在。

いまでは、韓国では「日王の起源は朝鮮である」とか「天皇は韓国人」などと言っているが、これほどでたらめな歴史観もない。そもそも、古来朝鮮と現在朝鮮はまったく異なるものなのだ。歴史的事実として一部部分は正しい。ただ、それは一部分だ。また、彼らは、かつて日本と渤海が日本海を内海として、交易・文化交流をしていたことをあげて、「東海」にすべきだと主張する。確かに、渤海と日本は強い軍事同盟を結び、「兄弟の国」として認め合っていた。しかし、古代社会と現代社会では、まったく国家の姿が違うのだ。この地域で唯一残っているのは、日本だけではないか。





古来より、「外つ国」のヒトやモノを大らかに受け入れ、「日本人に同化させていった」姿が、日本なのである。世界各地の文化、宗教、民族が天皇という一大家族の親のもとで融合し、「日本」を創造していった。



その「世界の奇跡」が、「天皇」であり、「日本」なのである。



科学合理的に天皇の歴史の断絶性を証明しようとしても無駄なのである。いまここにある現実として、天皇は連綿と続き、日本がある。よって、それが「万世一系」の物語として語れるのである。





日本人は、相手が朝鮮人だろうが、中国人だろうが、台湾人であろうが、受け入れることを拒否しない。彼らの先祖も、この日本という土地に根付き、日本人になっていったからだ。





そう考えたとき、なぜなのかと、外国人参政権の必要性に疑問をもつのである。

日本人になれば十分ではないか。

永住者に対しては、帰化の機会はいくらでもあった。

それを受け入れないヒトたちに対して、なぜ「国民の権利」として、日本人が譲歩しなければならないのか。日本の歴史は、移民も帰化も否定していない。





「民族排斥」と「愛国(反反日)」を違えてはならないが、本当に日本の歴史をしっていれば、安易な「融和(友愛?)」政策にはなりえないはずなのである。
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03:46  |  【 想う日本のこと 】  |  トラックバック(0)  |  コメント(0)

2010.11.03 (Wed)

天皇制と家族制は廃止するべきか?

川邊喜三郎氏が1945.11.28‐12.07にかけて、駒澤大学にて学生207名を使い、20歳以上の男性・女性をそれぞれ10歳の間隔で等分に分けた計1865名×2に対して行った調査がある。テーマは、『家族制度存廃に関して』。この結果、男性の家族制度賛成派は77%、女性の家族制度賛成派は68%と出ている。詳しい結果は、川邊喜三郎氏の研究成果(『天皇制の科学的研究』東洋経済出版社、1946年)を読んでいただきたい。



川邊喜三郎氏は、早稲田大学でも教鞭をとっており、早稲田大学でも同様の調査を同時期に行っている。早稲田大学政治経済科の一年生150名が調査にあたり、20歳以上の男女2400名に調査を行っている。結果は、男性の家族制度賛成派は89%、女性の家族制度賛成派は85%、となっている。ただし、注意しなければならないのは、家族制度を維持しながらも改革しなければならないという意見が、それぞれの賛成派に3分の1程度いることである。



川邊喜三郎氏の調査の面白い点は、敗戦直後の日本において、この調査を実施したことであり、家族制度と天皇制の関連づけを行っている点にある。



早稲田大学で、同様の方法で『天皇制存廃に関する調査』を2回に渡って行っている。1回目の調査では、男女あわせて天皇制維持派は83%である。男性でもっとも支持の高いのは50代だか、男性の各層には偏差がない。面白いのは女性で、天皇制維持派の最も高いのは20代であり、各世代と比べると、10ポイント近くも異なっている。



敗戦により、戦前社会の価値が全面的に否定され、社会が混乱しはじめている頃にも関わらず、規模を拡大して2回目の調査を行えば(1回目と同時期)、天皇制維持派は数を増している。男性では92%、女性では86%が支持している(女性に関しては『不明瞭』が14%である)。しかし、天皇制の現状維持派は50代以上の男性と女性全世代にみられる特徴であり、20‐49歳の男性では、各層共に極めて強く天皇制を存続させながらも、改革しなければならないという意見結果を出している。



これらの調査は、当時の大学生が調査員となって、偶然率と完全無記名で行われている。食糧事情と交通機関の悪化により、両大学とも冬期休学が前倒しされようとしている(社会)時期の調査だけに面白い。



川邊喜三郎氏は、この結果を受けて、以下の考察を出している。



天皇制廃止論者が30代の男性に多いのは、この世代が青春を迎えた時代が第一次世界大戦後の民主主義共産主義が隆盛を迎える時代だから。



・しかし、この世代を中心にして、家族制度賛成派が高まるのは、家族制度は道徳社会制度であるから。



・『新日本建設』『旧弊打破』が社会的に叫ばれながら、家族制度と天皇制が帝都(東京)においても圧倒的支持にあるということは、地方含めた日本全国では、維持派はさらに高まるはずである。



・国民大衆の世論をもって政治の基調とする民主主義の立場をとるならば、家族制度も天皇制も、科学合理的な結果から決してGHQに廃止はできない。





この調査は、歴史的な政治目的を有しており、研究者としての立場を超えているかもしれないが、少なくとも、その後の日本の進み方に一定の方向性を与えた調査であった。



結果、GHQに家族制度と天皇制は徹底的に弱体化されたが、少なくとも日本の伝統精神を昇華させていく芯だけは伝え残っている気がする。



家族制度と天皇制は、一体的なものである。この理由は、別の記事で書くつもりだ。しかしながら、ニ千数百年来の我が国の歴史が紡いできた伝統の偉力は、前代未聞の国家の危機にあっても揺らぐことはなかった。



しかしながら、この両制度とも、夫婦別姓による戸籍廃止構想・天皇の政治利用によって、危機に瀕している。
その現実を自覚するべきだと考える。
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