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2008.12.09 (Tue)

堀江貴文氏の歴史的意味

きのうは『経営と資本』というテーマを取り扱いました。きょうは内部統治としての『労働と資本』というテーマをあつかってみたいと思います。ここで取り上げる事例は『近衛内閣の新体制運動』です。

この体制が構築された影響は現在でも続いているとぼくは思っています。日本の企業文化というものはこの呪縛から解き放たれていないと思っているからです。その社会的意味から考えると、(色々と賛否両論あるでしょうし、ぼくは1度もお会いしたことはありませんので人物評価は避けますが)ライブドアの堀江貴文元社長というのは、この日本の歴史を覆そうとした時代の旗手だったのではないかな、と思うんです。もちろん、現在係争されている犯罪事実が真実であれば、これを支持することはできませんが、社会的意義としては別の論をたててみようと思うのです(個人的には天皇制批判を選挙中にやった堀江さんが保守政党である自民党の公然とした支持を取り付けて運動していたことには、両者に対してかなりぼくは不信感・不快感をもっているのですが、あえて政治的な話は今回、横に置きます)。なぜ、堀江さんが歴史的変革者であったと考えるのか、それは文章の末尾までお読みいただけるとご理解いただけると思います。

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【More・・・】

まず、『近衛内閣の新体制運動』とはなんだったのか、をご説明したいと思います。1940~41年に展開された『新体制運動』というものは、近衛内閣によってすすめられた市場経済を計画経済に転換させた制度改革でした。その改革というものは「帝国憲法の改正ないしその弾力的運用ということをも含む、全政治、経済、社会体制の変革をめざす運動」であり、転向したマルクス主義者から軍部の革新派に至るまで様々な改革派が結集した社会現象でした。その目的はヴェルサイユ=ワシントン体制の打破により、社会主義的な高度国防国家の建設というものでした。

この運動で注目すべきは、左翼転向組によって構成された企画院が構想した「経済新体制」の構築です。これは、バブル崩壊まで(むしろ、現在にも続く)日本経済を定義づけさせていた経済体制だとぼくは思っています。政府・産業団体・企業という三階層によって、価格ではなく上層からの数量的指令によって経済が運営さけるというシステムです。この産業団体をひとつにまとめたのが統制会という組織です。個々の企業の情報を産業別に集約し、産業間の相互調整を容易にし、さらに政府計画を企業別に分割し、その実行を監視するという社会経済の一体化を図ったのです。これは現在の連合や経団連の構造となんら変わりありません。また談合をうみやすい業界協調、そして不変の下請け制度を構築した最初の社会的制度でした。実際に統制会により企業の統廃合が強力にすすめられ、軽工業が縮小し、重化学工業では大企業と中小企業の継続的取引関係が強制的に拡大されます。この下請制度は戦後まで続くことになるのは、よくご存知のことだと思います。

企画院がすすめた経済改革というものに重要な要素がもうひとつあります。企業の目的を利潤から生産に置き換えたことです。これは価格等統制令によって企業の利益率と生産に対するインセンティブが低下したことに由来します。ここが大事なところですが、この運動により企業の『所有と経営』の分離が進められ、経営者と株主のパワーバランスが逆転したのです。しかし、利潤を軽視した企業経営というものは上手くいくはずがなく、本来の目的である生産増加も阻止し、43年にはこのシステムは修正され、利潤を目的とした経営が公認されました。ただし、注目できることは、企業目的が生産に置き換えられたという観念は、現在の売上高重視につながるのです。構造は変わりません。ということは、売上高重視で商品流通改革を起こしたダイエーの存在というものは、実態としてなんら過去からの経営観念と変わりが無く、これが崩壊したということは日本経済の企業目的が純粋に粗利重視へと転換したことであると言えるのかもしれません。そして、日本経済の特徴ですが、この『所有と経営』によって1940年代から主要企業の大株主や持株会社の株式シェアが顕著に低下しはじめます。そのために、役員に占める大株主役員の比率低落、内部昇進役員の比重上昇が生じます。現代でも日本経済とアメリカ経済を比較した時の違いというものでよく指摘される部分がまさにこの部分なのです。

企業改革とともに金融改革もすすみました。所要資金の銀行からの借入が企業に強制された結果、企業の資金調達に占める株式や内部資金の比率は大幅に低下し、民間金融機関からの借入が増大しました。これは株式を中心とする直接金融から間接金融システムへと転換したといえます。銀行融資の際は、従来から取引関係のある銀行が幹事となり、この幹事銀行が全国金融統制会の斡旋を受けて協調融資団を結成し、借入を行う企業の審査とモニタリングを結成しました。これは現在まで続くメインバンク制の原型をつくったのです。そしてこの間接金融の拡大は、財閥企業の傘下銀行から傘下企業への融資が重要となり、その結果、傘下銀行と傘下企業の結びつきが強くなり、本社の傘下企業に対する統制力というものが決定的に低下したのです。日本のグループ内の経営決断というものが多くの手順を踏む文化を生んだのはここにあると思います。

この論で一番重要なことですが、株主や本社の地位が低下したことは、経営者と労働者の地位を上昇させたことにあります。あまりイメージできないことかもしれませんが、労働者の権利が確立しはじめるのは戦中からなのです。1937年に労働争議が頻発したために、労使の懇談と福利厚生を主な役割とする産業報国会を事業所別に設けました。これにより、「労使一体」が国家の方向性となり、企業の一員として労働者は経営に対する発言機会が認められましたし、企業の利潤動機が公認されるに伴い、労働者に対する利潤分配制度が導入されました。また、労働者の生活状態が急速に悪化していたために、賃金体系が能率給から定額基本給になり、定期昇給へと移行したのです。現在の「会社は社員のもの」という観念とサラリーマン特有の給料制度はこの時代によって創られたといっても過言ではありません。

既にお分かりだと思いますが、現在の日本経済の体制は転向したマルクス主義者たちが整備し、社会主義的体制改革によって戦後に確立されました。当時の改革というものを現在まで引きずっていますが、堀江貴文という人物を中心に起こった株主の権限強化、年俸制や能率給への変化、業界内の再編成、メインバンクシステムや護送船団方式の崩壊、起業文化の勃興というつし先ごろの時代の流れは、戦中体制・戦後民主主義体制からの脱却を起業文化が目指そうとしたといえるのかもしれないのではないだろうか、と思っているのです。

池田内閣では「戦後はすでに終わった」と表現されましたが、経営文化という真の意味では「戦時はまだ続いている」と表現できると思うのです。日本の文化に根付いた社会体制改革は僕たち現代の人間に要求されている社会改革だと思うのです。その意味では、ぼくは最も革新的であったと思われていた堀江さんが最も「日本的なもの」を追求しようとした保守的な人物であったと思えてならないのです。






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