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2008.12.07 (Sun)

わが国の高等教育政策を考える 【連載01】

大学経営における「2009年問題」、つまり日本全体の大学への入学定員数よりも入学志望者数のほうが少なく、現実として決して過渡年生が存在しなくなるわけではないが、理論的には誰もが大学に志望すれば入学できる『大学全入時代』の到来は、日本全国の国立・公立・私立大学を問わず、大学経営の性質を変容させはじめた。

少子高齢化の深化に伴う学生数の減少、バブル経済の崩壊による大学資産価値の再算定、90年代以降の大学経営に関する法的緩和など、各種社会現象が相まって大学全入時代を迎えることになったのである。とくに2001年4月に誕生した「規制改革」を政治改革の旗印にした小泉純一郎内閣のもとで、それまで学校法人審議会により厳しく審査されていた大学・学部新設事項事務が準則主義へと規制緩和され、全国的に大学新設ラッシュが発生した。2006年には国公私すべての大学数は744校にのぼったが、10年前と比較すれば168校も多く新設されていることになる。

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「教育の大衆化」と重ねてすでに少子化の影響が出始めていたにもかかわらず、私学経営者をはじめとする大学関係者たちの政治的要求運動により、1980年代からすべての大学の定員増加政策がとられつづけていたことを考えれば、長期にわたってわが国の文教政策が修整されることなく誤った視点で運営されていたと考えられるのではないだろうか。第2次ベビーブームによる18歳人口がピークを迎える1986年から1992年までの7年間をとくに、大学経営側の視点から『ゴールデンセブンの時代』と表現されることがあるが、適正な入学者数の量的政策がなされていれば、現在のような大学が定員割れを起こすような現実は起こらなかったはずである。

小泉内閣による大学設置規制の改革は、各大学の学生確保のための柔軟な経営戦略をより一層促進するものとして位置づけられたが、解決の目処がたたない少子化が進んでいるにもかかわらず、大学数や学生定員の増加は当然、競争多寡の状況をうみだした。日本私立学校振興・共済事業団の調査によれば、2007年度の私立短期大学の定員割れ率が初の6割越えをはたすなど、その状況は一向に改善を見せていない。2005年6月には萩国際大学(現・山口福祉文化大学)が学生数の定員割れを主原因として全国初の民事再生法適用を申請したが、まさに「大学淘汰の時代」と表現してよい時代に日本は突入したといえる。

「大学淘汰の時代」を経験することは、欧米を出発点とした近代大学制度という文化からみれば、決して不思議なことではない。現在の大学制度は中世欧州の発明であるが、伊国や仏国、英国、独国をはじめとする欧州各国の大学は幾度も「大学淘汰の時代」と「大学過剰の時代」を繰り返しながら、その大学文化や制度を発展させてきた。欧州大陸の庶子である米国においても同様である。米国の大学は合衆国全体の建国史と密接に関係しており、その学術レベルも目的性も当初は欧州各国の大学とはまったく異なるが、やはり同じように「大学淘汰の時代」と「大学過剰の時代」を繰り返したし、大学制度が世界的に標準化していくなかで1980年代初頭には現在の日本が直面しているように少子化によって大学の「危機」が予想され社会問題となり、これを乗り越えた。そのような歴史的事実を考えていけば、明治維新以降、近代化の過程でうまれたばかりとも表現できるわが国の大学制度は、はじめて「危機」を迎えて今後これからのこの乗り越え方によって、大学が大学たるその資格を試されているのかもしれない。そのように考えれば、欧米各国の大学改革の歴史は、これからのわが国の「大学のあり方」を考えるうえで参考になるのではないだろうか。「模倣と創造」によって独自の文化圏を築き上げたわが国・民族の性質を考えれば、欧米各国の大学改革の内容を比較分析することは決して意味のないことではないと考える。

しかしながら、現在のわが国の大学受難時代はなにもその社会環境の変化による影響で引き起こされたものではないと考える。文部科学省からの研究費配分制度を根幹から揺るがす研究費横領や詐欺事件の多発、在学生による凶悪犯罪の多発化など、大学という教育現場の意味を社会的に再考せざるをえないスキャンダルが多発している。私学の雄とされ、所属する学生もまた社会権力の不正に対して「在野の精神」を誇りとする早稲田大学にあっても、松本和子・理工学部教授による研究費の不正受給問題や、多くの女子学生に対して集団暴行事件を起こした学生サークル「スーパーフリー」の存在は、大学経営という観点以上に衝撃を与えた。わが国を代表するといわれる国立大学法人である東京大学でさえもまた同様に、皇太子の主治医でもあった堤冶・大学院医学系研究科教授による研究費の不正受給問題や、現在係争中ではあるが、多比良和誠・大学院工学系研究科教授らによる論文捏造疑惑事件などを起こしている。

これは個人道徳の腐敗であるのか、それともわが国の高等教育政策の行き詰まりが生じさせている現象のひとつであるのか、冷静に分析をする必要があるのではないだろうか。松本和子教授は安倍晋三内閣において、国家の政策方針を決める総合科学技術会議の議員でもあったことを考えれば、大学現場での不正は個人の問題として片付けてよい問題ではないはずだ。

社会環境の変化による影響、大学内統治政策の改革要求、これら諸問題は「大学の危機」という意識を大学内外にアピールしている。この危機は、既存の大学経営を破綻させるかもしれない。しかし、逆説的に考えれば、教育の本質、大学教育の目的を再考したときに、現在の大学教育の供給過多や大学内部の自治意識や規律の再確立が必要せまられることは、上述したように、わが国の教育制度を再編成するうえで重要な歴史的過程なのかもしれない。愛国心条項のみマスコミ等に議論された教育基本法改正の内容も、国や自治体が私学教育振興につとめていくというこれまで曖昧であった私学助成に対して踏み込んだ内容のものであった。近代教育政策という意味において、明治・戦後と続いて第三番目の「教育改革」期にわが国は突入したといっても過言ではない。

米国は大学の危機が叫ばれ始めた1980年代初頭において、教育改革のために"A Nation at Risk"(『危機に立つ国家』)という危機意識を如実に示したレポートを作成し、政府・大学・学生みな一体となって大学の危機を乗り越えた。レポートのなかでは『もし非友好的な外国勢力が米国に対して今日のような凡庸な教育をするように押し付けたとしたなら、それは戦闘行為に相当するものだとさえみなせるのだ。教育の現状を看過すれば、自らの手で、これと同じ侵略行為を許してきていることになるのである』とさえ断じている。大学の危機、教育の危機とは、まさに「国家存亡の危機」である、という意識に立たなければ、本質的な改革は決してなしとげられないだろう。

本連載では、政府がわが国の方向性を導出する機関として設置する『国立大学』を中心にして、その大学制度史・政策理論・昨今の制度設計を、教育改革の継続性と断続を考えるうえでわが国の現状と比較しやすい二大政党制をもって中央政府議会を構成する米国と英国の例と比較しながら、最終的にわが国の「今後の高等教育政策のあり方」を考えていきたい。
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20:56  |  【 想う日本のこと 】  |  トラックバック(0)  |  コメント(0)

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