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2008.12.07 (Sun)

思想家としての宮崎駿。

悪人を倒せば世界が平和になるという映画は作らない――宮崎駿監督、映画哲学を語る
http://bizmakoto.jp/makoto/articles/0811/27/news004.html


先月末、うえの記事を見つけた。
宮崎駿氏が社団法人日本外国特派員協会(英FCCJ:The Foreign Correspondents' Club of Japan )でスピーチしたものをもとめられたレポートだ。

宮崎駿氏はアニメ監督以上に、現代の思想家としても巨大な人物としてとらえられている。
しかし、どうしても納得がいかない。
彼のメッセージを聞いても、読んでも、ぼくの心にはひびかないのだ。

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【More・・・】

ぼくも宮崎アニメで育った世代だし、宮崎アニメは好きだけれども、しかし彼の思想家としての立ち位置にはまったく賛成できないのだ。

もちろん、彼は純粋な左翼理想主義者であって、労働組合の書記長をしていたり、共産党関連の檄文を書いていた経歴があるとはいえ、いわゆる『サヨク』としての枠組みをはめようとする一部の保守派の批判の仕方はおかしいと思うし、そういう批判はすべきではないと思っているが。



>常識的な教育論や日本の政府が言っているようなくだらないようなことではなくて、ナショナリズムからも解放されて、もっと子どもたちの能力を信じて、その力を引き出す努力を日本が内部需要の拡大のためにやれば、この国は大した国になると信じてます。

子どもの教育論には色々な哲学があるし、宮崎監督が主張したい内容も分かる。開発説なのか、教導説なのかは色々と議論があるところだと思うが、「子どもの権利」などという天与人権説を欧州の歴史性や宗教性を咀嚼せずに戦後民主主義教育思想が認めたがために現在の教育現場が混乱している、左派の教師たちが混乱させている、という現実をどう考えるのだろうか?
また、ナショナリズムから解放れた国とはなんなのか?
この場合、近代西洋政府論としての機関論を指しているのか、それとも象徴性のコミュニティー概念を指しているのか、おそらく宮崎監督のなかでは(色々な本を読んで調べても)整理できていない部分なのではないだろうかと思う。


>本当は国がやらなくても両親や地域社会がやるべきなんですけど、地域社会をこの国は経済成長のために破壊してしまったので、それを時間をかけて取り戻さければならないと強く思ってます。

果たしてこの歴史性は妥当なものだろうか?壊した主体や責任は別のところにあるのではないだろうか? 宮崎監督が批判する国とはなんなのか?


>宮崎 「世界の問題は多民族にある」という考え方が根幹にあると思っています。ですから少なくとも自分たちは、悪人をやっつければ世界が平和になるという映画は作りません。
「あらゆる問題は自分の内面や自分の属する社会や家族の中にもある」ということをいつも踏まえて映画を作らなければいけないと思っています。
「自分の愛する街や愛する国が世界にとって良くないものになるという可能性をいつも持っているんだ」ということを、私たちはこの前の戦争の結果から学んだのですから、学んだことを忘れてはいけないと思っています。

この辺の真意は『出発点―1979~1996』をよめばよく分かるし、ボクも同意できる部分であり、この思想性・批判性こそが彼を現代日本には数少ないまじめな純粋な左翼理想主義者としての彼の存在価値を作っていると思う。そういう意味では、彼の理想性・一貫性にはほんと感心してしまう、ボクのような保守派などと位置づけられる思想側の人間にとっても。



>――麻生首相がアニメ・漫画好きと公言されていますが、これをどうお考えになっていますか?
宮崎 恥ずかしいことだと思います。それはこっそりやればいいことです。

まったく全体の話題とは関係ないことだが、宮崎監督と麻生総理は学習院の同級生でもあるのだから、彼らの個人的な人間関係はどうなのだろう?。おふたりとも相当クセが強いし(笑)。だけど、彼の左翼性というのは、この戦前から階級社会の頂点にいたことへの、ある種のコンプレックスだと思う。同位置にいながら、逆方向のベクトルをめざしたのが麻生総理なんだと。だから、彼らを比較するととてもおもしろい。





以下、参考資料。
宮崎監督のサヨクとは違う左翼性を理解するためにとてもよい資料だと思い、紹介したい。
(※ボクはサヨクはキライだが、宮崎監督のような左翼は評価に値すると思っている。全面的に賛同はできまないが。しかし、彼らとウヨクではない保守派というのは思想的に原点が同じであるので、共感できる部分は多いとボクは思うのだ)


◆フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

一貫して環境保全、反戦を主題とした作品を作り続け、湾岸戦争に対しては米国政府の方針に反対の立場を表明していた。大学時代から社会主義思想に傾倒するようになり、東映動画入社後は激しい組合活動を行った。その後も長らく反体制的左翼的思想を保ちつづけていたが、 1989年の天安門事件および東欧革命に大きな衝撃を受け、社会主義陣営の歴史的敗北という現実を前に思想的転向を余儀なくされる。
思想面で混迷を深めていた宮崎は、やがて堀田善衛や司馬遼太郎らとの交流から、人間の実相を「もっと長いスタンスで、もっと遠くを見る」ように凝視する(宮崎が"澄んだニヒリズム"と呼ぶところの)姿勢に転換していく。例えば漫画版『風の谷のナウシカ』のラストなどに、その人間観・世界観の変化の影響が見受けられる。
なお、宮崎に深く影響を与えた思想に、文化人類学者中尾佐助による「照葉樹林文化」論がある。ヒマラヤ山脈南麓から中国南部・日本本州南半分までを含む地域が、茶・酒・柑橘類などの特色をもつ共通の農耕文化圏に含まれるとするこの学説に、国家の枠を乗り越える視点を与えられ、「呪縛からの解放」感を味わったという。その後も宮崎はインタビュー・対談など事ある毎に中尾佐助を引き合いに出している。このことは若き日の宮崎にとっていかに「日本」という命題が深刻なものであったかを、逆説的に物語っているものといえよう。
最近では、問題になった新しい歴史教科書をつくる会の教科書を「民族の“誇り”は歴史を歪曲することで得られるものではない」と語ったことがある。一部論者の中には「これは、歴史を歪曲して日本の過去の一連の侵略戦争を美化する政治家や右翼活動家への批判であり、日本のナショナリズムの勃興や右傾化風潮に警鐘を鳴らしたもの」と言う者もいるが、一方で宮崎は、司馬遼太郎や堀田善衛との鼎談で、韓国人の誤った歴史認識に言及しており、この発言自体は日本に限定したものとは言えないとする見方もある。また宮崎は憲法改訂に関して9条の支持を表明しているが、同時に、もし国民が9条改訂を選択したならそれに従うという趣旨の発言もしており、政治的リアリストとしての一面も持っている。



◆北海道新聞 2001.07.03(火)夕刊より

ごつごつとした大谷石が、初冬の日差しの中でかすかな緑色を浮かべる。それが幾重も積まれたガード下に、宮崎駿は立った。昔のままではないか-。昨年11月、栃木県の親類の葬儀に向かう途中、宮崎は、実兄の新(62)=東京在住、会社社長=の提案で、戦時中に疎開していた宇都宮市に立ち寄った。住んだ家と遊び場だった私鉄ガード下だけはあまり変わっていない。この大谷石の元に、消せない体験が眠っている。
1945年(昭和20年)7月12日夜。マリアナ諸島の基地を発進した133機の米爆撃機B29は、同市に約800トンの焼夷(しょうい)弾を投下した。「空襲だ」。4歳の宮崎は両親の呼ぶ声で目を覚ました。宮崎は父に抱かれ、7歳の新は叔父に手を引かれて近くのガード下まで逃れた。新は、曇天の雲の切れ目からオレンジ色の光を放ちながら無数の焼夷弾が次々と落ちてくるのを見た。火が街を包んでいく。ここも危ない。叔父が家にとって返して運転してきた小型トラックに乗り込み、隣の鹿沼市に向かうことに。
その時-。「助けてください」。子供を抱いた近所の男性が駆け寄ってきた。しかし、小さいトラックは既に宮崎の家族でいっぱい。車はそのまま走りだした。次第に遠ざかる叫びが、荷台の兄弟の耳に残った。
このころ、宮崎の父は親類が経営する「宮崎航空興学」の役員だった。鹿沼市の工場で中島飛行機の下請けとして軍用機の部品を生産していた。そのせいか、戦時中、親類で戦争に行った者はほとんどなく、食べ物で困った記憶はない。
知人を見捨てて生き延びた自分。兵器をつくることで育てられた自分。宮崎は学生運動に関心を持ち始めた大学生時代、幼少時の押し殺していた体験と向き合い苦悩した。見かねた新が「悩んでもどうしようもないじゃないか」と声を掛けたが、宮崎の陰影は濃くなるばかりだった。
五十数年ぶりに訪れたガード下で、宮崎はずっと無言だった。
「千と千尋の神隠し」制作の忙しさが一段落するころ、月刊誌「モデルグラフィックス」の編集部長市村弘(42)は宮崎に電話をかけるつもりだ。「そろそろどうですか」。宮崎の連載エッセー「雑想ノート」の依頼だ。17年前から始め“超”不定期ながら今も続く。映画制作では「戦争もの」に背を向け続ける宮崎だが、エッセーは戦史や兵器の題材が多く、その博識には驚かされる。
「戦争を調べるのが好きなんですよ」と宮崎は明かす。「戦争は、人間が猛烈に葛藤(かっとう)している時期で、そこに人間の愚かさ、大きさ、切なさも含めて、あらゆるものが強烈に目に見えてくるんです」
戦争と人間。宮崎が向き合い続けるテーマが、ここにある。
(社会部 嵯峨仁朗)



◆97年11月23日付の「信濃毎日新聞」の「本の森」欄

映画『もののけ姫』の大ヒットが続いている。先月三〇日には、歴代1位の『E.T.』を抜き、ついに映画配給収入の新記録を樹立するに至った。宮崎監督の作品評を多く手がけてきた関係で、「なぜこれほどの観客動員に成功したのか」「どこが時代とシンクロしたのか」と聞かれる機会が多い。
私は、『もののけ姫』が観客を圧倒した中味の一つは、主人公の少年が示した行動力だと考えている。バブル崩壊以降、閉塞観が支配的な現代日本にあって、内省的思索にふけったり、苦悩の泥沼でもがく没行動的主人公の物語は数多く生まれた。そこに突然、解決不能の絶望的矛盾を背負いながらも、共存の策を求めて前向きに疾走する人物が現れた。主人公アシタカは、生命がけで最善を尽くすが、ついに何も解決出来ない。結果ではなく、過程が人の心を動かし、些細な希望を託せる変化は起きる。しかし、世界は浄化されず、矛盾もそのまま。物語後の展望は決して明るくはないが、「それでも生きよう」と結ばれる。スッキリはしないが、じわりと染み入る複雑でリアルな感動がある。ここには、二十一世紀の生き様のヒントがあるのかも知れない。
新聞を広げれば、株価大暴落、一流企業経営陣の逮捕、連続通り魔、少年の逮捕・裁判など、およそ明るい記事はない。唯一元気な記事は考古学・歴史学・民俗学上の新発見くらいのもの。『もののけ姫』の放つパワーは、この元気な学術的ビジョンにも遠因がある。この種の研究成果は、日常と無縁な希望に思われがちだが、実は現代を照らす意味でも、未来を模索する意味でも大きな意味を持つものが多い。
たとえば、網野善彦氏が明らかにしたような、中世日本の民衆の捉え方である。網野氏の著作は専門書から入門書まで数多いが、初めての方には『日本の歴史をよみなおす』(筑摩書房)をお勧めする。
網野氏は、従来の権力者と農民主体の中世史観を覆し、絵巻や文書に基づく斬新な民衆像を浮かび上がらせた。女性の社会的地位が高く、芸能民・職能民が特権を与えられ保護されていたこと、海外貿易や市を司る僧侶集団がいたこと、神仏・天皇直属の特殊職の民がいたことなど。その世界は驚くほど多彩で複雑だ。『もののけ姫』に登場する勇ましい女性職能民や怪しい僧侶は、史実を宮崎監督流に解釈したものだろう。 
一方、『もののけ姫』には「タタラ」と呼ばれる製鉄プラントが登場する。これも、徹底して樹を伐ることで成立していた「タタラ製鉄」の史実に根ざしたもの。一九六九年出雲・菅谷地区に於いて、一子相伝の秘伝と言われたタタラの技術を解明するため、「最後のタタラ師」を集めて、製鉄の復元作業が行われた。翌年制作された岩波映画『和鋼風土記』はこれを記録した作品だが、五年後に監督自ら舞台裏を克明に記した本が出版されている。それが『和鋼風土記/出雲のたたら師』(角川選書)である。宮崎監督はこの本を熟読し、作品世界の構築に役立てたと言うが、残念ながら絶版となっている。
ところで、一部評論家や文化人に『もののけ姫』を「期待はずれ」とする不満評がある。奇妙なことに、いずれも大衆的絶賛の根拠に対する分析がなく、感性的反発や知識的アレルギーを吐露したものが多い。これは、生きている社会に対する実感の違い、つまり《感覚の温度差》を示した現象かも知れない。作品の密度と時代性が、評者を篩にかけてしまったと考える。
文責/叶 精二



◆「別冊宝島/アニメの見方が変わる本」(97年9月2日/宝島社発行)

宮崎氏の大きな思想的転換は、七〇年代後半ではなかったか。その転換とは、植物学者・中尾佐助氏が提唱した「照葉樹林文化論」との出会いである。
太古の地球では、ヒマラヤ山脈の麓から日本に至るまで常緑の照葉樹林(クス・カシ・シイなど)がベルト状に茂っており、各地ではその森に依拠した文化が発生していた。その文化は、衣食住から伝承に至るまで共通が多く、一つの文化圏とも考えられた。照葉樹林地帯は温暖湿潤地帯にしか発生しないため、再生力が非常に強い。このため、人間が破壊をやめれば、数十年でうっそうたる二次林に戻ってしまうのである。国土の狭い先進工業国たる日本に、未だ多くの雑木林が残っているのもこのためである。日本の自然は破壊に寛容であったのだ。
国境でも民族でもなく、原生植物の性質が人間の文化を決定づけた―とするこの学説は、宮崎氏の思想に涼やかな新風を送り込んだ。宮崎氏は、暗く恐ろしい森や縄文文化に憧れる自身の根源をここに発見したのである。それは、心情左翼として祖国の歴史と政治・経済体制を否定し続け、中央アジアやヨーロッパ諸国に憧れて来た宮崎氏が、初めて「世界に繋がる森の民」として「日本人」を肯定することでもあった。以降、日本の風土と照葉樹林を自作で描くことは宮崎氏の課題となった。
ところで、独裁者や武器商人など悪人を打倒し、社会を改善すれば事たれり―とする世界観は、所詮数十年レベルの平和を着地点とするものでしかない。しかし、現実の世界はもっと複雑である。人間同士の争いと平和の物語は、数千・数万年単位で続いている森と人類文明の壮大な物語を構成する一つの因子に過ぎないのだ。それは、人間中心主義の視点からは決して見えない、余りにも巨大な物語である。
 宮崎氏のモチーフは、80年代に入ってこうした難解な思想領域に踏み込んで行くことになる。単なる冒険譜と人間解放の物語でなく、自然と人間のつき合いをめぐる問題を抱え込んでいくことになるのだ。その作風は、「照葉樹林文化論」を核とする植物学的・考古学的・民俗学的興味に起因している。
文責/叶 精二



◆もののけ姫の企画書より

この作品には、時代劇に通常登場する武士、領主、農民はほとんど顔を出さない。姿を見せても脇の脇である。
主要な主人公群は、歴史の表舞台には姿を見せない人々や、荒ぶる山の神々である。
タタラ者と呼ばれた製鉄集団の、技術者、労務者、鍛冶、砂鉄採り、炭焼。馬借あるいは牛飼いの運送人達。彼らは武装もし、工場制手工業ともいえる独自の組織をつくりあげている。
人間達と対する荒ぶる神々とは、山犬神、猪神、熊の姿で登場する。物語のかなめとなるシシ神とは、人面と獣の身体、樹木の角を持つまったく空想上の動物である。
主人公の少年は、大和政権に亡ぼされ古代に姿を消したエミシの末梢であり、少女は類似を探すなら縄文期のある種の土偶に似ていなくもない。
主要な舞台は、人を寄せ付けぬ深い神々の森と、鉄を作る城砦の如きタタラ場である。
従来の時代劇の舞台である城、町、水田を持つ農村は遠景にすぎない。むしろ、ダムがなく、森が深く、人口の遥かに少ない時代の日本の風景、深山幽谷、豊かで清冽な流れ、砂利のない土の細い道、沢山の鳥、獣、虫等純度の高い自然を再現しようとする。
これらの設定の目的は、従来の時代劇の常識、先入観、偏見にしばられず、より自由な人物群を形象するためである。最近の歴史学、民族学、考古学によって、一般に流布されているイメージより、この国はずっと豊かで多様な歴史を持っていたことが判っている。時代劇の貧しさは、ほとんどが映画の芝居によって、作られたのだ。この作品が舞台とする室町期は混乱と流動が日常の世界であった。南北朝からつづく下克上、バサラの気風、悪党横行、新しい芸術の混沌の中から、今日の日本が形成されていく時代である。
戦国もののような常備軍が組織戦を行う時代とはちがうし、一所懸命の強烈な鎌倉武士の時代ともちがう。
もっとあいまいな流動期、武士と百姓の区別は定かでなく、女達も職人尽しの絵にあるように、より大らかに自由であった。このような時代、人々の生き死にの輪郭ははっきりしていた。人は生き、人は愛し、憎み、死んでいった。人生は曖昧ではなかったのだ。
二十一世紀の混沌の時代にむかって、この作品をつくる意味はそこにある。
世界全体の問題を解決しようというのではない。荒ぶる神々と人間との戦いにハッピーエンドはあり得ないからだ。しかし、憎悪と殺戮のさ中にあっても、生きるにあたいする事はある。素晴らしい出会いや美しいものは存在し得る。
憎悪を描くが、それはもっと大切なものがある事を描くためである。
呪縛を描くのは、解放の喜びを描くためである。
描くべきは、少年の少女への理解であり、少女が、少年に心を開いていく過程である。
少女は、最後に少年にいうだろう。
「アシタカは好きだ。でも、人間を許すことはできない。」と。
少年は微笑みながら言うはずだ。
「それでもいい。私と共に生きてくれ」と。
そういう映画を作りたいのである。



◆86年11月2日 一橋大学国立校舎の講演会にて

「日本の歴史に対するものの考え方が、今、民俗学や、農耕史や古代史や、いろんなものの変化の中でね、ずいぶん広がりが出ているんです。歴史に残っている英雄豪傑や、あるいは殿様やらの歴史じゃなくて、庶民の歴史がね。あるいは山の中で暮らしていた人間達の歴史がね。そういうものの中に、単一民族やだとくくってしまうことのできない複雑さと豊富さがあるんですね。それを、作り手が発見しない限り、面白い時代劇なんてできないだろうと思ってるんです」



◆朝日学芸文庫刊『時代の風音』より

「農村の風景を見ますと、農家のかやぶきの下は、人身売買と迷信と家父長制と、その他ありとあらゆる非人間的な行為が行われる暗闇の世界だというふうに思いました。ですから、日本の景色を見ても、水田を見ても、咲き乱れる菜の花畑を見ても、みんな嫌な風景に見えました。嫌いだったんです。それを回復するためにえらし時間がかかりました」



◆『世界』88年6月臨時増刊号所収『呪縛からの解放 -栽培植物と農耕の起源』より

「国家の枠も、民族の壁も、歴史の重苦しさも足元に遠ざかり、照葉樹林の森の生命のいぶきが、モチや納豆のネバネバ好きの自分に流れ込んでくる」



◆「もののけ姫を読み解く」所収インタビューより

「清かったその後に出来上がってきた風景が、今ぼくらが自然といっている、日本の見覚えのある風景だと思うんですよ。それを僕らは自然と呼んでいるけれども、実はその前に、深い、恐ろしい自然があって、その時の記憶は自分たちの心の底にある。山奥には、人が踏み入ったことのない清浄な土地があって、うっそうたる森と、清らかな水があって、実はそういう形が日本の自然の一番の中心にではないかと思うんです。それが変わるにしたがって、今の慣れ親しんだものになった。日本人の庭というのが、深山幽谷を狙ったというのは、その自然観を反映しているんです。だから、森をずいぶん刈り倒して、山の様子を変えたにも関わらず、自分たちの心の奥底には、やっぱり神がいて、そこに一番清浄な部分があるという記憶だけが、いつまでも残っている。僕もそうした記憶が、いつの間にか植えつけられています」
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