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2008.12.07 (Sun)

神道の復興とその本質

ひさしぶりにまじめなことを書きます(笑)。
今回は神道についてです。
(ちなみに所属宗派や教団という意味では、ボクは無宗教です。)


神道というのは、そもそも儀式のみによって成立していた生活習慣だといえます。神道が“言葉”によって復興したのは、鎌倉の頃だと言われています。面白いのは、鎌倉時代というのは、政治的に日本の革命期だったわけですが、宗教面においても鎌倉禅仏教が登場してくるころなのです。では、なぜ鎌倉禅仏教がうまれ、神道が復興しはじめたのか。

鎌倉時代から仏教の世界では『末法の世』に突入したといわれます。

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仏教には正世、像法、末法という3つの世界観があります。正世とは、お釈迦さまがまずは存在し正しい教えと修行によって現実に悟りを開くものがいる時代のことをいいます。像法とは、教えとそれに基づく修行はあるものの、悟りを開くことが不可能な時代のことをいいます。それぞれ、1000年続いたといわれます。そして、最後に来るのが10000年続くといわれる末法の時代です。永承7年、つまり1052年にこの時代に日本でははいったといわれます。末法とは、教えだけは残っているが修行も行われず絶望の救われない時代のことをいいます。

この絶望に覆われた時代の到来が仏教改革と神道再生をなしとげた、といえます。この時期に整備されたのが伊勢神道です。

神道が“言葉”によって記録されなおされ、最も重要視された哲学は天照大御神の神言です。『宝基本記』にはこう書かれています。原文は漢語です。



人は乃ち天下の神物なり。須らく静謐を掌るべし。心は乃ち神明の主たり。心神を傷ましむる莫れ。神は垂るるに、祈祷を以て先と為し、冥は加ふるに、正直を以て本と為す。



簡単に訳せば『人は存在そのものが神なのであり、神は人それぞれの心に宿る。心の神は天照大御神であり、これを傷つけてはならない。わが身を捨てるように祈り、ただまっすぐな心で生きなければならない』ということです。心こそが神であるからこそ、相手を尊敬する、思いやる、という日本の文化がなりたつのです。このような生き方は西日本で稲作がはじまった縄文時代後期からなのではないかと指摘されていますが、『魏志倭人伝』には



大人の敬する所を見れば、ただ手をうち以て跪拝に当つ。



という記述があります。尊敬するものに対して拍手をして、跪拝する、といいます。それは相手が神だからです。心に神が宿るからこそ、相手のことも尊敬する。お辞儀という文化が誕生したのも、こういう宗教的背景があったのではないでしょうか。心を正さなければ、神はいくなくり、神がいなくなれば身を滅ぼしてしまう、そういう考え方はいまだに現代を生きるボクたちにもいきてはいないでしょうか。『宝基本記』の託宣にはこうあります。



有無の異名を分ち、心使い走り、安き時有ることなし、心臓傷れて神散去す、神散ずれば、即ち身喪ぶ、人は天地の霊気を受けて、霊気の化する所を貴ばず、神明の光胤を種ぎて、神明の禁令を信ぜず、故に生死長夜の闇に沈み、根の國底の國に吟ふ。



しかし、江戸時代には人々が神道の本質を忘れていると度会延佳が『中臣祓瑞穂鈔』でこのように指摘し警鐘を鳴らしています。



上一人より下萬民まで、天御中主の分神の神を、心中にやどし奉りて、自性とすれば、心は神明の御舎と云へり。分つ時は百千萬の天御中主、合する時は只一体の天御中主にて御座せば、根本は神と人と差別なしと云えども、汚穢不浄の悪心によりて、神明の舎の御戸を閉て、人々の心中に坐ます天御中主を拝奉る人まれなり。天御中主の吾心中に坐ます事を全く知不人あり。坐す事を知ると云えとも、拝奉不人もあり。偶拝奉雖も、御舎の御戸を又閉る人もあり。如此様々の人品ありて、常に天御中主に配封し奉る人なし。さは云えど、上に聖徳まします時は、御教の徳化のしるしに、人々心中の神明を拝奉時、神代其まま今にありて、天下泰平ならずと云事なし。たとひ上の御教なくとも、神道修行の功に依て、吾心中の天御中主を拝み奉れば、もとより天地偏満の御体なる故に、吾心天地に偏満して、満物一体の神人となる也。この天御中主の神の道なれば神道と云。



神道の本質とはまさにこの点にあるといえます。天皇と国民は一体である、それは天皇も国民も心に神を宿し、その心も神もいっしょだからです。かつて森首相が「日本は神の国である」と神道政治連盟の会合で発言し、マスコミに叩かれましたが、それはまったく日本の文化を勉強していない批判だったと思います。日本は「神国」「皇国」である、と断言していいと思います。天皇も国民も彼らの先祖もすべて「心」という神によってつながっている。これは神代から現在までまったく変わっていない。その一体感が時には個性の無い文化と糾弾される家族主義の文化を生んだのだと思います。日本というひとつの「家」は存在しなければならないのではないでしょうか。そして、神国たるゆえんは、神である自分の心を明らかにすること、を指すのだと。

その神への道を失うことに、世の乱れが現れてしまう。北畠親房は仏教でいう末法の本質を『神皇正統記』でこのように書いています。



世の中のおとろふると申は、日月の光のかはるにもあらず、草木の色のあらたまるにもあらじ。人の心のあしくなり行を末世いとはいへるにや。



先祖の霊魂と自らの心、そしてなにか人間をこえる畏れ敬うものである神、の存在の一体性が神道であり、日本の文化であり、日本人の生活習慣ではないでしょうか。多神教という意味の「神々の國」という言葉の意味は、そういう一体性にあるのだと思います。そのような日本人の一体性に西洋哲学の限界を超える可能性を見出したのが、ラフカディオ・ハーンでした。彼は『東の国から・心』の中でこのように書いています。



かりに、われわれの死者がわれわれの身辺におり、われわれのすることをなんでも見ており、われわれの考えることを何でも知っており、われわれの口にいうことばをなんでも聞いており、われわれに同情をよせてくれ、あるいは、われわれを怒ったり、助けてくれたり、われわれから助けをうけるのを喜んだり、われわれを愛してくれたり、われわれに愛を求めたりするという絶対の確信が、われわれの心に突然起こるようなことがあったとしたら、われわれの人生観や義務の観念は、きっと大きな変化を生ずるに違いない。(中略)ところが、極東人のばあいは、死者が自分の身のまわりにしじゅういるという考えは、数千年にもわたる長い間の信念なのであって、かれらは毎日、死者に物を言いかけているし、なんとかして死者にしあわせを与えようとつとめている。



誠の道を歩み自らの行いを正すことは国の基なのだと思います。
荒廃しきった現代社会であるからこそ、それぞれ個人が誠実に人生を生きようと心がけることが、国の乱れを正す唯一の道だと確信しています。
そして、国民にそのようなメッセージを出せる政治指導者がいま必要とされているのだと思います。
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13:24  |  【 想う日本のこと 】  |  トラックバック(0)  |  コメント(0)

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