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2013.04.10 (Wed)

縦割り行政が国家を滅亡させる -講和交渉、昭和天皇のリーダーシップ-

第2次世界大戦においてなぜ日本は敗戦を迎えることになったのか。
なぜ日本は被害を増大させることになったのか。
その原因を求め、二度と同じような失敗を繰り返さないようにつとめることに、歴史を学ぶ意義があります。それは決して「個人に対する人格攻撃・批判」ではなく、「構造の歪みに対する批判・修正」であるべきです。
第二次世界大戦における日本の敗戦は、政治や行政だけでなく、現代のあらゆる組織構造の課題を改善することにつながる課題を抱えているのです。

日本の敗戦の決定打となったのは、ソ連の対日参戦でした。
日本と中立条約を結んでいたソ連が突然侵攻してきたことにより、交戦能力を完全に維持することができなくなったのです。このソ連の対日参戦を読むことのできなかったことは、日本の一方的な外交的敗北だとこれまで言われていました。

しかし、事実はそうではなかったのです。
8月9日のソ連侵攻は、2月のヤルタ会談で米国・英国・ソ連の間で密約として決まっていた連合国による戦争密約でしたが、実はこの密談の内容をヨーロッパ各地にいた日本の駐在武官たちは既に察知して、日本本国に情報を伝えていたのです。

日本の在外武官達がすでにヤルタ会談の内容を把握していたことを、連合国側も認識していたようです。イギリスの国立公文書館に所蔵されている『最高機密書類 ULTRA』の中にこの日本の駐在武官たちが日本本国に送っていた暗号電報を英国が解読していた記録が残っています。

昭和20年5月24日のスイス・ベルン海軍武官電ではヤルタ会談でソ連は対日参戦を約束したことを本国に報告しています。その後も、同じソ連の動向を伝える電報は続いています。6月8日のポルトガル・リスボン陸軍武官電、6月11日のスイス・ベルン海軍武官電などがつづきます。7月2日のポルトガル・リスボン陸軍武官電の冒頭は以下のように書かれています。

Russia’s entry into the war against Japan is now a question of the next few weeks ,…
(ソ連の参戦はあと数週間のうち)

8月9日までソ連の対日参戦を知らなかったとされる日本に、実は5月の段階からソ連の動向が情報として入っていたという事実は、何を意味するのでしょうか。

戦時中、各省の情報部は独立したままでした。それぞれの情報部が得た情報を中央政府全体で共有する構造はありませんでした。まさに「縦割り行政」そのものです。日清・日露戦争の頃は、元老を中心とするリーダーたちが伊藤博文や桂太郎を支えるべく、それぞれの利害を超えて、「情報共有」の意思をしっかりと有していました。だからこそ、勝利をつかみとることもできたと言えます。だからといって、第2次世界大戦時の日本のリーダーたちが縦割り行政の弊害を認識していなかったというわけではありません。この時期も、そのような構築に向けての努力はなされようとしていたのです。

5月11日、この際、縦割り行政を廃止するために、戦争遂行のトップ・リーダーたちが胸襟を開いて今後の状況を打開しようと宮中で会議が開かれています。出席したのは、鈴木貫太郎内閣総理大臣、東郷茂徳外務大臣、阿南惟幾陸軍大臣、米内光政海軍大臣、梅津美治郎参謀総長、及川古志郎軍令部総長の6人でした。この6人で戦争の行く末の道筋をつけたいという意志表示であったのでしょう。

この会議で、東郷は国力のあるうちに早期講和を交渉しようと提言します。この東郷の意見に対して、陸海軍のリーダーたちは「一撃後講和」を唱えます。地の利がある本土決戦で連合軍に「最後の1勝」をしたあと、講和をしようという意見です。それが、少しでも有利な条件で講和に持ち込むための戦略であると彼らは考えていたのです。

両者の意見には決定的な戦略眼の違いがありますが、共通していたのは、連合軍との講和交渉の仲介を、ソ連に願いたい、というものでした。当時、外務省政務局長をつとめていた安東義良〔※1〕は、東郷と米内、梅津の3人は日清戦争以前の状態に日本を戻すことも決意し、少なくとも満洲から日本の権益のすべてを引き上げることを構想していたと証言しています。ソ連に与えるべきものはすべて与えてでも講和に持ち込むという意志の強さをリーダーたちは持っていたと評価してよいでしょう。しかし、そのような講和交渉への強い意志を有しながら、その後の会議も含めて、ソ連の対日参戦という情報がトップリーダーたちの会議で8月9日まであがらず、また認識されなかったのでしょうか。

この場合、考えられる可能性は3つあります。

① 駐在武官たちの情報が陸海軍のトップリーダーたちに達しなかった。
② 陸海軍内部(もしくはトップリーダーたちに)で駐在武官たちの情報が無視された。
③ 陸海軍のトップリーダーたちは「一撃後講和」を実現するために対日参戦の情報を秘匿し、外務省や内閣に伝えなかった。


少なくとも情報が陸海軍のトップリーダーたちに伝わって入れば、彼らの「戦争継続」への認識が変わっていたことは間違いないと考えます。なぜなら、すでに彼らは日本を救うには戦争を継続せずに講和するしかないと認識していたからです。陸軍省軍務課長をしていた永井八津次も、阿南の本意は早期講和であったと証言しています。

陸軍内部で終戦工作を担当していた松谷誠大佐が阿南に降伏プランを提示しに行った時に、阿南はこのように返答しています。

「私も大体君の意見の通りだ。君らは上の者の意見の見通しは甘すぎると言う。だが我らが心に思ったことを口に表せば影響は大きい。私はペリーの時の下田役人のように無様に慌てたくはないのだ。準備は周到に堂々と進めねばならんのだ」

松谷とともに終戦工作を担当していた海軍の高木惣吉少将は、官僚的な発言を繰り返し、講和への決定を遅らせるトップリーダーたちを戦後に以下のように批判しました。

「非常にそれは阿南さんばかりじゃない。日本の政治家に対して私が訴えたいのは、腹と公式の会議における発言とそういう表裏が違っていいものかと。一体、その国家の運命を背負った人が、責任ある人が、自分の腹と違ったことを公式のところで発言して、もし間違って自分の腹と違った決定になったらどうするのか。・・・職責がこうだとかああだとか言われるんですよ。それはごもっともなんですよ。だけど平時にはそれでいい。だけど、まさに祖国が滅びるかどうかというような、そういう非常事態に臨んでですね、平時の公的な解釈論をやっている状況じゃないじゃないかと。自分は憎まれ者になってもですよ、あるいは平時の慣習を踏み破ってもですね、この際もう少しおやりになってもいいじゃないかというのが、僕らの考えだった」

阿南たちが早期講和を口に出せなったのはなぜでしょうか。その理由は2つあるように思えます。

① 國體護持を条件に絶対に天皇を護らなければならないという使命。
② 軍内部に内在する主戦派たちを一掃することのできない、長年の軍内部の派閥抗争。

阿南が8月15日に自決した背景を思えば、彼もまた官僚制の硬直に悩み苦しみながら、自らの使命を果たそうとした人物であつたと考えますが、高木が指摘するように、二律背反性が官僚制の硬直のなかで見出されることも事実だと考えます。例えば、陸海軍が講和交渉の前提と考えていた「一撃後講和」を実現するために、「本土決戦」の作戦を立案していた参謀本部作戦部長の宮崎周一は、本土決戦で勝利をあげることが一撃後講和のために必要と訴えましたが、本土決戦は極めて困難だと分かっていたと戦後に証言しています。しかし、作戦部長の立場としては、そんなことは言えないし、作戦を断念することもできなかったと。まさに、このような硬直的な組織状況が日本を敗戦に追い込んだ「日本病」であったと考えます。

しかし、それは軍部のみの問題であったわけではありません。
外交を担当していた外務省も同様であったと考えます。

外務省は当初から陸海軍の情報部の能力を信用していませんでした。外交の専門集団である自分たちが、軍部の情報部に先んじられることはない、国際状況の現実をもっとも現実的に分析できるのは、自分たち外務省であると、軍部の能力を過小評価していました。

その過信が日本の敗戦を決定的にさせる事件が6月7日に起こります。

海軍のもとに、スイスに駐在していた海軍武官が米国・ホワイトハウスと講和に関して直接交渉できる糸口をつかめた、との情報が入ってきます。米国が要求する「無条件降伏」の定義が未だ政府内部でも厳密なものになっておらず、今なら講和交渉に入れる、との報告だったのです。高木はこの情報を信用し、米国と講和交渉に入るべきだと米内に進言します。しかし、米内はこの報告を信じませんでした。米国が日本と現在の状況で講和交渉に応じることは信じられず、この情報は日本の陸軍と海軍を分裂させる謀略であると評価しました。米内は、この情報から海軍は手を引き、外務省に処置を任せるべきと高木に指示を出しました。この時の米国の交渉相手は、後のCIA長官となる戦略事務局のアレン・ダレスでした。彼は、ソ連への警戒感から、戦後に米国がソ連と対抗するためには、日本に国力を残さなければならないと考えていました。そして、日本に講和させるためには、天皇制を残すことを米国が保障する条件をつけて講和交渉に応じなければならない、と理解していたのです。海軍から情報を受け継いだ外務省は、このスイスルートを信用できない・意味ないものと一蹴します。日本の早期講和のチャンスは、縦割り行政による省庁間の意識対立から潰えてしまったのです。

このような組織の硬直化からまったく事態を前進させることのできない状況を打開することができたのは、昭和天皇の「聖断」でした。本来は、中央政府組織のリーダーたちが決定しなければならない政治的決定を、政治の外にある天皇が決断しなくては、「決めることができない」「責任をとることができない」組織にこの当時の政府能力は劣化していたのです。

昭和天皇による第2次世界大戦時における「聖断」は8月聖断が有名ですが、実は6月22日に昭和天皇が先の中央政府のトップリーダー6人を招集した御前会議が重要な「聖断」を示した日でなかったのかと考えます。

6月11日、大陸視察から帰国した梅津は、その視察結果から得た知見を陸軍内部に伝える前に、昭和天皇に奏上しました。昭和天皇の側近である内大臣木戸幸一によれば、梅津は昭和天皇に対し「支那派遣軍はようやく一大会戦に耐える兵と装備を残すのみです。以後戦闘は不可能と御承知願います」と奏上したと言われています。昭和天皇はこの奏上を受け、22日の御前会議に臨むことになるわけです。

昭和天皇はこの戦局の悪化を考えれば、国策の転換をはかるべきではないか、と問いかけます。米内と東郷は、ソ連に仲介交渉を頼みたいと答えます。しかし、梅津は、内外に影響が大きいので、対ソ交渉は慎重にすべきと意見します。11日にこれ以上の戦争は不可能と奏上しながら、早期講和の話に乗らないばかりでなく、軍の惨状を他のリーダーたちに伝えないのです。昭和天皇は11日に奏上した内容を他の者にも伝えよと暗に梅津に詰め寄るのですが、梅津は陸軍参謀総長としての立場の発言から抜け出すことができません。講和を進めることに同意しながら早期の講和にしぶる梅津に「(講和交渉は)よもや一撃講和の後ではあるまいね?」と問い質します。この昭和天皇の発言によって、日本の政治選択から「一撃後講和」は排除されました。昭和天皇は、中央政府のトップリーダーたちに早期講和を促したのです。しかし、結局、トップリーダーたちは「最後の決断」を下すことができず、8月聖断をまつことになるのです・・・。

この対ソ外交をみたとき、当時の日本中央政府は、政府組織内部やトップリーダーたちの間で、情報共有と政策の統合化が課題となっていたことが分かります。最後には昭和天皇の聖断に頼らなければならない、という「決められない」組織構造が、日本の敗戦の最大原因であつたと考えます。

① 決定を下す責任者がいない。
② 会議が踊るばかり。
③ 組織間に情報共有がされない。

このような組織の硬直化は、敗戦時の日本政府だけではありません。
東日本大震災における復興政策などはその代表例でしょうし、現在のあらゆる組織でも指摘することができるでしょう。
そうであれば、私たちが果たすべき組織改革・刷新のポイントや課題は明確なはずではないでしょうか。


※1 「敗戦」という国民的ショックをやわらげるために、「終戦」という言葉を考案したのは、この安東である。
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03:07  |  【 想う日本のこと 】  |  トラックバック(0)  |  コメント(0)

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