2017年10月 / 09月≪ 12345678910111213141516171819202122232425262728293031≫11月

--.--.-- (--)

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

Lancers.jp
--:--  |  スポンサー広告

2011.03.04 (Fri)

内務省による教育行政の主導と「教育権の独立」

はじめに

 本発表は、第二次世界大戦開戦へと向かう日本が総力戦体制を構築するために幅広い大規模な教育改革を志向・展望した教育審議会において教育行政と内務省の関係性について考察するものである。特に、教育財政の政策課題を担当した整理委員会での議論の展開を明らかにすることを課題としている。敗戦前の文部省は「内務省文部局」 と言われるほど、内務省に教育行政の主導権を奪われていた。敗戦を迎え、戦後教育改革が展開されると、行政の支配から教育が脱却するために「教育権の独立」が叫ばれれるようになる。これはひとつ、文部省の立場からすれば内務省からの独立という意味を有していた。筆者は、戦後教育改革において「教育権の独立」を提唱・前進させた田中耕太郎の改革構想を通して、戦後教育改革の行政的側面からその思想系統を研究することを構想しているが、本発表もその研究の一環に位置づくものである。

 1937年の日中戦争の勃発により、日本は大規模な戦線を展開させはじめ、国力のすべてを戦争に向けなければならなくなる。1938年には国家総動員法が成立するが、教育においても「国家総動員教育」 の確立が求められた。社会世論においては、近衛文麿を指導者として国家構造の抜本的な改革を求めていた様相であった。後に、大政翼賛会へと繋がる「新体制運動」である。これと連動するように、教育においては、抜本的な構造改革のために強力な審議機関の設置が求められ、教育審議会が1937年に設置される。だが、「集中性」「刷新性」という改革テーマが社会的に求められていたにも関わらず、教育やその社会的構造の硬直性を改革することは容易ではなかった。それは、近代国家を形成する官僚組織の行政機能の大部分を掌握していた内務省の権力性が強大だったからである。教育審議会では、国力総動員に向けての構造改革と共に、内務省と教育行政の関係性を再編成するという目的を明確に有し、政府に対する答申案を作成していった。戦後教育改革においても同様に「内務省からの教育行政の脱却」が唱えられたことを考えれば、強力な改革号令のもとでも、内務省の力は残存していたことになる。そして、教育行政の側面からみれば、戦時期教育改革においても、戦後教育改革においても、議論された改革テーマが共通していたことに注目できる。その視座にたてばこそ、「教育権の独立」の本義が理解・解明できると考える。

 本発表では、第1に内務省と教育行政・文部省との関係性を明らかにし、第2に教育審議会の概要を整理する。最後に、この関係性をめぐり、教育審議会内における教育行政体制改革構想を担当した整理委員会での議論の展開を明らかにする。このような教育行政体制改革に関する議論の展開を分析することにより、敗戦前における教育行政改革の課題とはどのようなものであったかを明らかにすることが課題である。戦後教育改革においてGHQや田中(耕)をはじめとする日本側教育改革者たちによって提唱された「教育権の独立」のためにの改革構想は、すでに教育審議会において議論されていたということを明らかにするのが、内務省と教育行政との関係性を題材にした本発表の目的である。


第1節   内務省が主導した教育行政


 「民主化」「戦前教育の転換」を目的とした戦後教育改革を担った改革者のひとりである田中(耕)は、明治以来、文部省が全国の教育を行政の側面だけでなく、教育内容を通して国民思想の動向にまで、中央集権的な官僚機構の首脳として監督し、支配した 、と批判した。しかし、一方で、地方教育界に対する文部省の影響は、内務省の下風に立たされていたと指摘する。


 府県庁の官僚は、課長や部長の地位にあって、地方教育に対し指揮命令をし、官僚風をふかせ、教育界に対してはなはだ尊大であった。(中略=引用者)これらの官僚は内務省系出身のもので(中略=引用者)彼等は教育には全くの素人であり、一般的に教育や教育者の使命についての理解を欠いていた。(中略=)教育者もまた技術者として内務系官僚の頣使に従わなければならなかった


 同様の批判は、雑誌批評でも展開されていた。英文学者であり、評論家でもあった中野好夫は、『世界』第155号での寄稿にて、文部省を支配していた実態を「文教府への旧内務官僚のナダレ込み」 と論評している。


 明治以来、言葉の真の意味で文部省が日本教育の真の支配者であったことなどは、少なくとも敗戦までただの一度としてなかったのである。(中略=引用者)敗戦までたしかに文部省というものはあり、文部官僚もあった。だが、彼等が支配しえたのは中央だけで、地方の現状は完全に内務官僚に急所を抑えられていた。いわば文部官僚は手足なしの冷飯官僚であり、それがあの文部省と文部官僚特有の卑屈な、そして御殿女中的劣等感にみちた雰囲気をつくり上げていたのである。(中略=引用者)地方における文部省の支配の如きは、完全に間接的にしかも第二義第三義的支配にすぎなかったのが実情であった


 なぜ、文部省が「内務省の出店」 と変質したのかといえば、時々の文部大臣に就任する人物の政治的影響以上に、中央文部省員と地方官の交流人事が大きい原因であっただろう。内務省による「ナダレ込み」が起きた人事を受け入れざるを得なかった原因は、内務省が地方政府の人事と財政・監査を掌握していたからである。内務省の設置は国家財政を取り仕切る大蔵省の設置より遅く、1873年11月であった。しかし、その組織の発展を経て、幅広い内政に関する権限を手に入れ、「国民生活の抹消にまで国家の支配を貫徹させる回路としての役割」 を果たしていった。古川隆久が「そもそも従来内務省あるいは内務官僚の全体像に関する研究は、対象の大きさゆえか存在しない」 と指摘するように、その巨像の詳細は未だ究明されていない部分が多い。決して内務省本省の人員は多いわけではなかったが、その指揮系統には地方自治体(府県等)の吏員も含まれていたため、監督官庁として全国にその支配を及ぼすことができたのである。帝国の首都にして、大都市であった東京市などに対して、内務省は行政監察を実施することができるなど、行政のトップに立っていたのである 。総力戦体制へと向かうなかで体制翼賛会が成立するが、国力の一元化を求めた同会の運営においても、内務省の地方組織への支配力から、その実態は内務省の力に依存しなければ同会は全く機能しなかった程である 。

 また、内務省の官僚は、その他の官庁の官僚と違って、国民を統治する側としての意識が強かったといわれる。内務省の官僚は「牧民官」と表現されることがある。『菅子』の章「牧民」から取られた言葉であるが、「民を牧う者」という意味である。植松忠博は、内務省の官僚が終始とっていた行政官としての姿勢を「内務省の役人は、霞が関から人民を見下していた諸官庁の役人とは違って、率先して府県に下って、日常に親しく接する人民の訴えを取り上げて、国政に反映させるべく努力しようとしたのである」 と評している。この積極性を体現したのが、内務省の「訓令」であった。訓令は上級機関から下級機関に対して出されるものである。1929年10月に内務省は各府県に対して、次年度予算決定の際には出来るだけ緊縮方針を取ることを要求したが、その具体的内容として「学用品の節約、師範学校学級整理、中等教員初任給の引き下げ」 等をあげていた。また、1930年5月には、内務省は①「なるべく高等小学校を廃して之を実業補習学校に合併せしむること」、②「教員、学級共に極力整理緊縮の方針をとること」 等という内容の訓令を発した。教員への給与不払い問題が起こるのは、この頃である。このように、教育行政に対する干渉、もしくは文部省と内務省の行政責任範囲の重複が、文部省や教育関係者たちに行政刷新を希望する動きへとつながっていく。平井貴美代が「実際のところ、内務省が支配する府県の教育行政全般に対してどれほどの影響力を及ぼしたのかは評論が分かれるところ」 であると述べているが、少なくとも教育行政を担当する文部省がより自主性を発揮するために、補助金や訓令等の行政手段によって「地方行政系統の全面的な掌握を既成事実化」 しようとした内務行政と衝突せざるを得なかったのは、自明のことであっただろう。


第2節   教育審議会の総動員性と民主制

 教育審議会は、日本の教育政策を刷新するためにその内容を審議する機関として、1937年12月10日に勅令第711号によって内閣に設置された。教育審議会の設置に際しては、衆議院において「教育ノ制度及ビ内容ノ革新ニ関スル建議」がなされ、貴族院において「政教刷新ニ関スル建議」がなされた。文部大臣のもとに設置されていた教学刷新評議会においても「政府ハ我ガ国内外ノ情勢ニ鑑ミ、教学ノ指導竝二文政ノ改善二関スル重要事項ヲ審議スルタメ、内閣総理大臣統括ノ下二、有力ナル諮詢機関ヲ設置セラレンコトヲ望ム」と建議し、教育審議会が設置された。教育審議会官制を公布した際、天皇の「上諭」が付されていたことは、この審議会に対し、改革の実行力を政府が期待していた何よりの証左であろう。1937年12月10日の発足から1941年10 月13日(廃止は1942年5月9日)までの約4年間に総会を14回、初等教育・中等教育・高等教育・社会教育・教育行財政の5つの政策課題を議論する 30名の特別委員会が61回、さらに具体的に答申案を作成する整理委員会が169回も開催された。内閣総理大臣の諮問機関としてのこの審議会は戦前最大規模の教育に関する政府会議であり、政府各機関、政界各層から委員が選ばれた。審議会の最高責任者である総裁は内閣総理大臣の奏請により天皇が任命した。政治家、官僚以外にも、東京帝国総長をはじめとする官学関係者たちなどが任命選出されている。

 大久保利謙と海道宗臣が監修した『近代日本教育資料叢書 資料編三 教育審議会諮問第一号特別委員会整理委員会会議録 第14巻 第19輯~第 21輯』の解題では、教育審議会の制度欠陥として「(イ)諮問機関の長が必ず政府の代表者であり、諮問機関の自律的行動と責任が確保されにくいこと、(ロ)諮問事項や調査審議経過などについての文書が公開されず、デモクラシーと行政を結合させるために設けられた諮問機関という制度を無意味なものにしていることが指摘されている(蝋山政道『行政組織論』昭和五年、日本評論社、二九七~八ページ)が、これらの点は教育行政の分野における諮問機関の特徴としても妥当するものである」 と指摘している。まさに官製改革主体の何物でもなかったわけであり、国力の集中を図る情勢に沿って、教育改革の答申がなされたのは当然であっただろう。

 しかし、教育審議会で出された多くの発想は、決して単純な外的システムの改革ではなく、戦後民主化・戦後教育改革にもつながる革新的なものであった。少なくとも、教育審議会の審議全体に貫かれていた特徴と指摘してもよいことは、「教育機会の拡充」というテーマである。教育審議会が審議・決定した改革をあげていくと、まずは、①小学校を国民学校と改称し、その義務教育年限を8年制としたことがあげられる。6年制の義務教育年限を2年間延長することは、長年の日本教育界の悲願であった。次に、②各種段階の学校に対する入学範囲を広範化させたことも意義が大きい。とくに、女子のための女子高等専門学校制度や大学令による女子大学の創設などは、その教育機会の拡充という意味で大きな意味があっただろう。また、③就学猶予免除規定から「貧窮」という事由を除去し、国民皆教育に向けた国家の意思を示した。反軍政治家として名をはせていた安藤正純委員は、「ドンナ階級ノドンナ困ツテ居ル人ニデモ、唯ノ一人ニデモ教育ヲ施サナケレバナラヌト云フ是ハ国家トシテノ義務ガアリ、又是ハ国民同朋トシテノ責任モアルト思フ」 である、と大変な熱意を示していた。国家のために「資本」としての人材を育成するという観点ばかりでなく、このような観点が審議会の議論で展開されていたことも、また事実なのである。国民学校令においては、盲・聾以外の障害児のために教育サービスを提供することも提案している。社会事業としての政策であれば内務省がその権限を有していたが、教育政策の責任であるとの姿勢を示したことは、文部行政のあり方を転換する歴史的意味を有するものであった。このような教育審議会が提唱した改革点を捉えて、大内裕和は、教育審議会の委員であった阿部重孝の研究を通じ、「社会的流動性の増大を民主化の指標とる戦後社会の文脈からいえば、戦時体制期はそれがいかに国家主導で行われたにせよ教育における『民主化』の進展であった」 とさえ評している。寺崎昌男もまた教育審議会が果たした役割の二重性を次のように指摘する。


 審議会において、先行する近代的諸改革構想が(中略=引用者)ファシズム教育の全体制の構築の前提をなす教育体制論の集積として位置づけることができる。しかし第二に、以上のような結果にもかかわらず、(中略=引用者)この時期の教育改革論者の改革論は、少なくともその発想や選択の動機において、教育の民主化と拡大への希望をもって着想され主張されたということが(中略=引用者)戦後の教育改革への先駆性ないし連続性をもって位置づけられるのである


 教育審議の実態が国家総動員のための準備装置であったという指摘は、その委員の構成によくあらわれている。教育審議会の委員・臨時委員74名のうち16名が新体制運動の象徴的人物であった近衛文麿を支える教育改革同志会のメンバーであったのである。彼らは「文部行政による地方教育および学校の直接的統制への変革を志向する」 改革観を有していた。この教育審議会がすべての改革課題を議論し終わって閉会したのは、新体制運動内閣であった近衛文麿内閣が倒閣し、日米戦争へと突入することになる東條英機内閣が成立する時であった。


第3節   整理委員会における教育行政改革議論の展開

 教育審議会の答申案作りは、総会から特別委員会に付託された。特別委員会では政策課題毎に総括的な審議を行い、さらに具体的な答申原案の作成・審議を整理委員会に担当させた。整理委員会は特別委員会委員の中から選任された内部会議のようなものであった。整理委員会は、第17回特別委員会(1938.6.17)で林博太郎委員(伯爵)の提案によって設置された。整理委員会で作成された答申案が特別委員会、総会へと上程され、可決した後、政府に提出される形となった。教育改革の具体的構想を討議したのが、この整理委員会であったので、本節ではこの委員会を取り上げる。また、総動員体制を仕上げる教育審議会最終年の1941年における教育行財政改革に関する議論のみを取り上げる。教育行財政が実質、内務省に支配されているという認識のもと、教育行財政体制をどのように刷新しようとしたのかその外形システムの革新論を明らかにすることは、戦時体制へと移行していく時期の教育行政史研究として重要な意味を有すると考える。

 1941年は、日本の大陸における戦線が膠着状態に陥り、士気低下を防ぐ軍紀建て直しのため、陸軍大臣東條が戦陣訓を通達したことから始まった年となった。教育行財政に関する整理委員会は、1941年6月20日から始まる。第1回目の会議には、総裁の鈴木貫太郎、特別委員長の田所美治、整理委員長の林をはじめ他11名の委員で構成された。また、文部次官の菊池豊三郎を幹事長とし、文部次官の田中義男、有光次郎、内山良男、加藤恂二郎の4名が幹事として参加している。

 第1回会議(1941.6.20)では、内務省と文部省の人事協定に関する質問が冒頭部分で出されている。基本的な文部省の組織体制の課題認識を整理した後、財政学者であり早稲田大学第4代総長であった田中穂積委員が積極的に会議をリードした。田中(穂)はその発言のなかで、文部省は省内に教育行政に関する調査研究や企画を総合的に判断できる独立した高等官を、陸軍の教育総監・司法省の検事総長や大審院長のように設置するべきではないかと提案した。その組織改革にあわせて、文部省は他省庁との人事交流を避けるべきであると指摘する。「文部行政ヲ首尾一貫シテ」「文部行政ノ徹底」 を図るために、特に内務省との関係性を見直すべきだと述べている。しかし、中央文部省が地方教育行政関係者の人事も一括して統制すべきであるという前提を信じながらも、経験もない若き中央の文部官僚が地方教育の責任ある地位につくことには反対している。田中(穂)の発言で注目できることは、新しい教育行政制度を構築するうえで、「文部行政ノ徹底ヲ期スルト云フコトカラ、例ヘバ鉄道省トカ或ハ徴税トカ云フ役所ノヤウニ『プロック』ニデモヤル」 ことにも反対していることでる。ブロック制に分けられた行政圏を設定するよりも、中央と地方との交流を促進すべきであると述べている。田中(穂)の意見を受けて、臨時委員であった東京農業教育高等専門学校長の上原種美も、教育のあり方から考えて、「文部省ト云フモノヲ各省ノ外二置イテ(中略=引用者)文部大臣ノミ獨リ内閣二超然トシテ」 置かなければならないと提案する。そして、現実には教育政策の方針を定める機関を、文部省の支配に入らせず、内閣総理大臣の直接委員会として設置すべきであると述べている。しかし、上原は田中(穂)と異なり、教育行政の弊害を是正するためにブロック化が必要であると訴える。会議では、これら「企画能力を有する独立した教育行政機関の創設」と「ブロック制の導入」が主な議論として展開されている。ブロック制が議論にあがる理由は、中央と地方をつなぐ督学官制度の実態にあった。田所も、督学官制度を実態ある効率性高いものにするために、ブロック制に賛意を示している。それに対し、貴族院議員の下村宏は督学官の数を増やせば問題は解決できると指摘する。文部大臣も経験した枢密顧問官である松浦鎮次郎については「地方『ブロック』ノコトハ以前ニモサウ云フコトヲ能ク考ヘタルコトガアル」 としたうえで、地方教育の財源を地方自治体に依存している以上は実現が難しいと、難色を示している。問題は、地方自治体の財政と人事を一切にわたって内務省がその権限を掌握しているという点である。この内務省との関係性から脱却するためには、督学官や教育行政官の地位を法的にもより向上させなければならないと、文部次官を務めた赤間信義や田中(穂)も主張していた。教育審議会における教育行財政に関する課題意識の抽出は、この第1回会議でほぼ出し尽されたと言ってよい。

 第2回会議(1941.6.25)では教学局の存廃論が議論され、第3回会議(1941.6.27)では社会教育行政に関して、第4回会議(1941.7.2)では督学官制の実態と学校経営に関して議論が展開された。第5回会議(1941.7.4)では、勅令によって設立された別の審議会である科学振興調査会による教育改革決議が紹介されている。科学振興調査会もまた、「文部省二強力ナル学術行政ノ中枢機関ヲ設置スルコト」「学術振興セシムル為ニハ現在ノ行政機構ヲ以テシテハ甚ダ不十分ナルヲ以テ新二強力ナル部局ヲ文部省二設置スベシ」 と決議しているのをみれば、当時の教育行政の問題がどこにあったかが容易に理解できる。第6回会議(1941.7.9)では、教員人事の調整や文部省の業務内容について意見が交わされた。第7回会議(1941.7.11)では、校長人事や文部省の宗教政策を支配する内務省との関係において「文部省ハ内務省二餘リ遠慮シナイデ、自分ノ受持ッテ居ル範囲ハ飽マデ今後徹底スルヤウニ」 と委員から文部省に対して批判がなされた。第8回会議(1941.7.16)では冒頭に、会議に内務省関係者が出席するように下村が要求を行った。第9回会議(1941.7.18)においても、内務省との関係性が議論として取り扱われている。地方行政や地方政治家が地方教育に影響を及ぼす「弊害」 が甚だしく、その是正を阻害しているのは、行政施策を実施する上で常に内務省の「イデオロギー」 であると批判があがった。この内務省の影響力の現実をとらえて、臨時委員の東京女子高等師範学校長であった下村壽一は、教育政策実施の効率性をあげるために、地域的に2、3の府県がブロック行政として連合する「府縣教育組合」 の創設を提案している。様々な委員から、内務省から教育行政の権限を教育行政機関に移行するべきであると意見が出され、「地方教育廰」 という言葉も会議で使用された。会議の結果、以下の決議が確認されている。


一、 全国ヲ数区二分カチ之二督学官ノ出張所ヲ置キ、地方ト本省トノ密接ナル連絡ヲ保タシムルコト
二、 地方視学官、地方教学官、青年教育官ノ任免ハ文部大臣ノ権限トナシ、且ツ其ノ地位ヲ高メ増員優遇スルコト、視学ハ之ヲ増員優遇シ適材ヲ適所二置キ教育ノ実効ヲ舉ゲシムルコト
三、 中等学校長ノ異動任免二付テハ全国的二考慮シテ適材適所二置き現行ノ取扱改ムルコト



 第10回会議(1941.7.20)では、教員の待遇問題に関して議論された。第11回会議(1941.7.25)では、先の会議での、教員の待遇問題の議論が引き続いて展開され、内務省が公立学校職員に対する待遇管理等を行っていることが問題とされた。第12回会議(1941.9.12)では、これまでの議論を通して作成された「教育行政及財政二関スル要綱案」が冒頭で文部事務官の内山良男によって朗読されている。そこには、「新設」「強力」「緊密」「徹底」「整備」「拡充」という言葉が並んだ。地方教育行政機構に関しては、ブロック制が採用されている。第13回会議(1941.9.17)は秘密会議であったため、議論の詳細が残されていない。第14回会議(1941.9.19)では、第12回会議で示された要綱案を修正審議し、更に付け加える前文の審議を行っている。整理委員会最後の第15回会議(1941.9.24)は、要綱案の実施を政府に完徹させるために、天皇に対して教育改革を実施する責任が政府にはあるのだという「教育尊重二関スル建議案」を提案・審議している。そして、総会も閉会になるのだが、日米開戦不可避と覚悟した近衛文麿は、この教育審議会による「新体制」のための提案を完全実現することなく、翌10月18日に内閣を総辞職した。


おわりに

 以上、本発表では、総動員体制という国家の方向性を教育の面で導き出す大きな役割を担った教育審議会における教育行財政のあり方に関する議論を通して、当時の教育行政の課題がどのように捉えられていたのかを明らかにした。まず、教育行政を主導する内務省の実態を明らかにした。地方自治体の財政と人事を掌ることで国家内政の権限を一手に掌握していたことが分かった。教育行政もまた内務省の主導に拠らざるをえなかったのである。次に、戦前の教育会議において最大の規模を誇った教育審議会の組織特性を史的考察した。教育審議会は、総動員体制への準備装置という役割を担いながらも、同時に戦後教育改革に通ずる「民主性」が見出されると結論づけた。最後に、教育審議会において具体的な政策課題への答申案を作成した教育行財政に関する整理委員会での議論の展開を整理した。

 教育審議会がその教育行財政に関する議論のなかで問いかけた課題は、戦後まで解決されることはなかった。内務省は戦後まで行政官庁の頂点に位置し続け、文部省による行政体系は一体性をみせることはなかったのである。戦後、文部大臣として教育改革を主導した田中(耕)は、「教育権の独立」を掲げた。その中身は教育行政の側面でいえば、「内務省からの独立を果たす教育行政の独立」と「地方教育行政の一体的な独立」であった。田中(耕)は、教育行政体系を「ブロック制」によって変革しようとした。田中(耕)はそのブロック制の設計基礎単位を帝国大学を中心とする地方を一体的に捉えた学区案に求めたが、同じような制度理論は教育審議会でも最重要政策課題として議論されていたことがわかった。それら共通性を見出したとき、教育審議会による改革性と戦後の教育改革は、その改革性において類似性・継続性があったと指摘してよいのではないだろうか。教育行政の側面からいえば、戦後教育改革は突如の占領軍の登場だけに拠るのではなく、戦前から既に戦後と同様の問題認識が形成されていたと考えるべきだろう。

 では、その改革性は教育審議会においてはじめて現出したものであるのだろうか。内務省による教育行政の支配は、既に前時代から存在していたであろう。地方教育行政のブロック化は、戦後においては田中(耕)の言を借りれば、「明治学制」を模範としていた。そうであるならば、明治の学制が失敗して以来、この再現に教育行政のあり方を一方に求めていた政策志向の系譜が存在していたと考えてもよいのではないか。教育行政の外形システムをどのように改革しようとしていたのか、その史的経過を今後、整理・研究していきたい。


(参考文献)

・中野好夫「教育を支配するもの-いわゆる「内務省文部局」について-」『世界』155、1958年。
・小澤熹「教育審議会による国家総動員体制下の教育改革」『講座日本教育史4 現代Ⅰ/現代Ⅱ』第一法規出版、1984年。
・田中耕太郎『教育基本法の理論』有斐閣、1961年。
・相澤煕『日本教育史談』学芸図書出版、1952年。
・河島真「書評:内務省史研究会編『内務省と国民』」歴史科学協議会編『歴史評論』595、校倉書房、1999年。
・大杉覚「首都経営改革の源流-内務省昭和十年東京市行政監察を中心に(上)」首都大学東京『法学会雑誌』48(2)、2007年。
・広瀬順皓「官僚の日本近代史28 大政翼賛会と内務省」『本』講談社、2008年。
・植松忠博「内務省の思想と政策 -牧民官意識と社会事業行政を中心に-」神戸大学経済経営学会『国民経済雑誌』174(3)、1996年。
・平井貴美代「戦前期学校経営改革における『地方の位置』」三上和夫・湯田拓史『地域教育の構想』同時代社、2010年。
・新里孝一「『内務省訓令第十七号』の政治的考察 -『翼賛体制』における内務省地方局の『農村自治』構想②-」『大東文化大学紀要<社会科学>』35、1997年。
・平原春好「解題」『教育審議会諮問第一特別委員会整理委員会会議録 解題』宣文堂書店、1971年。
・大久保利謙・海後宗臣監修『近代日本教育資料叢書 資料編三 教育審議会総会会議録 附録 第2輯』宣文堂書店、1970年。
・大内裕和「教育における戦前・戦時・戦後 -阿部重孝の思想と行動-」山之内靖、ヴィクター・コシュマン、成田龍一編『パルマケイア叢書4 総力戦と現代化』柏書房、1995年。
・寺崎昌男「概説」『講座日本教育史4 現代Ⅰ/現代Ⅱ』第一法規出版、1984年。
・大久保利謙・海後宗臣監修『近代日本教育資料叢書 資料編三 教育審議会諮問第一号特別委員会整理委員会会議録 第14巻 第20輯』宣文堂書店、1971年。
・大久保利謙・海後宗臣監修『近代日本教育資料叢書 資料編三 教育審議会諮問第一号特別委員会整理委員会会議録 第14巻 第21輯』宣文堂書店、1971年。
スポンサーサイト

Lancers.jp
21:39  |  【 想う日本のこと 】  |  トラックバック(0)  |  コメント(0)

Comment

コメントを投稿する

Url
Comment
Pass  編集・削除するのに必要
Secret  管理者だけにコメントを表示  (非公開コメント投稿可能)
 

▲PageTop

Trackback

この記事のトラックバックURL

→http://umemotodaisuke.blog54.fc2.com/tb.php/402-25bce1b8

この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

この記事へのトラックバック

▲PageTop

 | HOME | 
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。