2017年10月 / 09月≪ 12345678910111213141516171819202122232425262728293031≫11月

--.--.-- (--)

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

Lancers.jp
--:--  |  スポンサー広告

2008.02.04 (Mon)

早稲田大学院・公共経営論という授業の感想

公共経営論の最終授業日に受講者全員に質問された「なぜ地方自治は必要なのか?」という問いは大変面白い。ふだんよく気にもせず受け入れていた『民主主義の学校』といわれる地方自治がなぜ必要なのか、という考えは国民にとって行政とは何か、ということを再考するために必要な思考ツールであるように思える。

日本国内のみの話に限定したとしても、その地方自治に関する行政単位は都道府県から市町村長まで重層的構造をなしている。また、その規模も人口ひとつとっても様々だ。これらの自治体をひとつに議論するのも中々容易ではないため、今回は都道府県というものを中心にして考えたい。スポットをあてる対象は、直接選挙によって選出される“知事”とする。そして、知事制度史の観点から『地方自治の必要性』を考えてみたい。

Lancers.jp

【More・・・】

そもそも、官職としての名称は違うもののある一定の広域領域を統治する知事職(正式名は知府事・知県事)が創設されたのは、いまだ徳川幕府と京の官軍政府が互いにその武力を衝突させている最中の出来事であった。いわゆる戊辰戦争といわれた日本国内の内戦の進行具合により、順次幕府側より接収した領地に対して官軍が府県を設け、これを統括する官職として新設された。その後、明治政府は徳川幕府にかわる新しい中央集権国家を築き上げるために、版籍奉還後に旧大名たちをとりあえず知藩事に任命し、ゆるやかな形で藩政府体制を変質させていった。その後、新たな中央集権国家体制構築への総仕上げとして明治4年には廃藩置県を断交し、明治維新の功労者たちを新たなこれらの知事に任命した。この時、知事・地方長官・県令のシステムがある程度は完成し、明治19年には現在と同じ、府知事・県知事という官職名におさまることとなる。

重要なのは、この官職が明治政府の確立とともに、その質的内容を変化させていった点であろう。旧大名から彼らの家臣であった明治維新の功労者たちにその座は移り、政治任用のポストとして政治政府の日本統治の手段として活用された。しかしながら、明治政府がその統治機構を官僚制によって確立しはじめると、この知事職は内務省内の出世コースの帰着点として位置づけられた。

ある意味では、現在の外務省における駐在全権大使職と似ているかもしれない。

だが、内務官僚の既得権益として安定していたわけではない。政党政治の勃興によって、政権についた各政党の政党員がこの職に政治任用で就任するケースも多かった。しかし、この慣習も明治32年の第二次山縣有朋内閣の成立によって終焉を迎えた。山縣内閣が改正した文官任用令によって、再び内務官僚のその手にもどった。

そして、敗戦を迎えるまでこのシステムは続き、昭和21年にGHQの指令により官選制から公選制へと改革がなされるのである。勿論、戦後においても、肥大化し、硬直化した官僚組織の統制の影響を地方自治体、すなわち知事が受けなかったわけではない。昨今では国政レベルの政治家がこれら知事職に転身するケースが多くなったためいくぶん政治主導により中央政府組織と地方政府組織が同位の相互依存関係を築く傾向にあるが、それでも昭和期までは中央政府、とくに自治省が都道府県を支配するかのような関係を築き上げていたことは否定できないだろう。このインフォーマルななかば制度化されていた慣行は、地方自治体を運営するうえでの補助金や助成金などに対して強大な影響力を発揮していた。この関係性を改革するために、議論の対象となっているのが『道州制導入改革』なのだろう。

しかし、ここで私はこれらの関係の是非について議論するものではない。この議論もまた、「地方自治はなぜ必要か」というテーマに必要な議論なのだろうが、私がより注目したいのは官選制の時でさえ、この知事職は安定した職位ではなかったという点だ。

中央政府の意向によって簡単に知事のポストが入れ替わりをなされていた史実を見逃してはならない。不安定な統治の中では、決して成長も改革もありはしない。官僚制はかならず硬直化する。これは権力機構なのだから、当然だ。しかしながら、一方でこの官僚機構でさえ安定しなかったら、地方自治の安定的な成長はあるのだろうか。そこに民意があればよい。しかし、民意なき場合の不安定は知事の交代であれば、どうなるだろう。

史実をひとつ参考にしてみたい。

典型的な地方自治における官僚支配体制の混乱は、昭和3年の国政レベルではじめて施行された普通選挙時に巻き起こった『議会中心・天皇中心政治問題』事件のときにみることができよう。日本最初の国政レベルでの普通選挙制実施にともない、最大野党であった立憲民政党の綱領に対し、与党の立憲政友会が批判。これを当時警察権力を担う鈴木喜三郎内務大臣が強力に後押ししたため政局化に至り、政治国難決議案が尾崎行雄主導のもと国会に上程され、鈴木内務大臣が辞任。田中義一首相の指導力から、政界は一層混乱し、二重三重の政治事件が多発していくという一連の政治事件だが、決して政党政治史のみで語られる話ではない。地方自治においても、内務省を代表とする官僚組織においても重要な事件であった。

なぜならば、知事職への政党員の政治任用が山縣内閣以降なくなったとはいえ、政党政治の勃興は官僚組織のなかにも、彼ら個人が支持する政党の系列ごとの分裂を派閥として形成させた。そのため、国政選挙が行われるたびに、また行われたたびに官僚組織内においても政治闘争が発生し、人事の極度の流動作用を起こさせていた。昭和3年の普通選挙時においては、1月10日に古宇田宮崎県知事の更迭を最初に地方官の大更迭を田中内閣が断交し、議会解散の準備がはじまっていくことになる。古宇多知事に関しては、17日後には衆議院無所属候補者に対して大迫市長と共謀で立候補妨害・不出馬説得の罪で有罪が確定される。このようなケースは政友会と民政党の二大政党時代においては普通のことであったようだ。

この事件だけを考えてみても、中央政府の極度な地方組織に対する干渉は、政治混乱を招くなにものでもないように思われる。

政治とは、秩序の安定がすべてのような気がしてならない。
混乱のみが残す政治とは、結局のところ、どのような政治思想にしろ、政治体制にしろ、民意・民衆の放置にしかすぎないのではないだろうか。

だからといって、強大な中央集権国家のもと地方を官職が支配してよい、というのではまた違う。どちらにせよ、組織内の政治闘争の影響が人事にでるだけだ。

ならば、その『意向』というものを住民に託せばよい。その『意向』は各地で違うはずだ。そうなれば、国政の混乱が地方に波及することはないし、地方の混乱が国政に波及することもない。大きな違いはみせないと思うが、それでも個別モデルと全体モデルでは差異性を見せるのが当然だ。

その『安定性』にこそ、民主主義の魅力があるのではないだろうか。
だからこそ、地方自治が『民主主義の学校』といわれるのではないだろうか。
住民みずから責任をとる。誰もが責任をとらない社会であるよりも、誰もが責任をとる社会のほうが、自分たちが歩むべき将来が間違っているのではないかと判断しそうになったとき、軌道修正がきく。

ローマ帝国史を書いた小説家・塩野七生は言う。
「平衡感覚とは、互いに矛盾する両極にあるところの中間点に腰をすえることではないと思う。両極の間の行き来を繰り返しつつ、しばしば一方の極に接近する場合もありつつ、問題の解決により適した一点を探し求めるという、永遠の移動行為ではなかろうか。」

その行為を他人任せにしないというのが民主主義であり、地方自治の必要性なのだと私は思う。
スポンサーサイト
22:27  |  【 想う日本のこと 】  |  トラックバック(0)  |  コメント(0)

Comment

コメントを投稿する

Url
Comment
Pass  編集・削除するのに必要
Secret  管理者だけにコメントを表示  (非公開コメント投稿可能)
 

▲PageTop

Trackback

この記事のトラックバックURL

→http://umemotodaisuke.blog54.fc2.com/tb.php/30-50d65195

この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

この記事へのトラックバック

▲PageTop

 | HOME | 
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。