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2009.09.25 (Fri)

「押付け」ではなく、「自主改革」として捉えれば・・・。 【戦後改革】

今回はあえて「戦後教育改革」を、アメリカの「押付け」ではなく、日本の「自主的改革」であったという姿勢から、わが国の今後を考えてみたいと思います。「占領軍的民主主義」への改革を余儀なくされたことは事実ですが、その中にあっても、なんとか日本を守ろうとした戦後改革者の姿勢を評価したいと思います。
(ちなみに、教育勅語を放棄する途上において、教育基本法と両輪をなすものとして、昭和天皇による新教育勅語の成立を目指したのは、社会主義経済学者であり、後の文部大臣・社会党の代議士である森戸辰夫であったことは、あまり世間に知られていない戦後史だったりします。)


高等教育の制度設計にみる戦後教育改革期の意義


はじめに

近代国家の幕開けであった明治維新における教育改革とともに、第二次世界大戦における敗戦によって実行する戦後教育改革は、日本の歴史において特に重大な通過点であった。この戦後教育改革において重要な歴史的役割を果たした田中耕太郎は、その本質の所在の在り処を「戦後における教育行政の改革は、教育権の独立の一言で以て尽すことができると思う」 と述べている。「教育権の独立」とは、「教育を全体として観察して、教育が教育外の世界からの不当な干渉侵害から守られなければならないことを意味」 している。戦前末期においては、教育現場や教育行政はおよそ教育界の外からの支配に屈してきた。その歴史的反省にたち、価値転換を成し遂げたのが戦後教育改革であった。

戦後教育改革の流れを追いかけながら、田中耕太郎が文部省の行政官として掲げた教育行政再編構想「大学区構想」に注目し、「教育権の独立」論の検討を行い、田中耕太郎が担った戦後教育改革の意義とはなんであったのかを明らかにしてみたい。


1.戦後高等教育改革の変遷


およそ250年続いた徳川幕藩体制を終焉させた明治新政府は、世界的な欧米列強の植民地獲得競争に呑み込まれないために、早急に強固な独立国家を打ち立てる近代改革をなしとげなければならなかった。その近代改革の過程のなかでもっとも重要視されたのが国家枢要の人材を養成するための「教育」である。維新功労者たちの時代は遠の向こうに過ぎ去り、あらたな人材が必要される時代であった。新政府は先進国であった欧米列強の教育機関を範とし、学術研究の中心であり国家の最高学府・最高の教育機関として、国立の形で「大学」設置をすすめていくことになる。7世紀にはすでに大学寮が存在し、江戸期においても昌平坂学問所、蕃書調書、医学所、神戸海軍操練所などの高等教育機関は設立されていたが、近代高等教育制度という意味では明治維新後をまたねばならない。

すでに1871年に文部省を設置して中央集権的な教育行政を展開できる体制を築いていた新政府は、翌年には文部省布達13号をもって「学制」を成立させる。新政府の教育政策に対する姿勢は「邑に不学の戸無く、家に不学の人無からしめん」というものであり 、多くの多難・紆余曲折を経ながらも、近代高等教育制度は時代の進展とともに、拡大発展をしていく。

しかし、わが国の高等教育制度は、1937年に勃発した支那事変を皮切りに、国家体制が戦時体制へと移行する中で、その発展を中断してしまう。1941年から国家総動員体制の名目のもと、在学年限や修業年限が短縮されはじめただけではなく、1943年には「教育に関する戦時非常措置方策」が閣議決定され、理工科系統および教員養成諸学校をのぞく学生の全面的出陣が図られた。学徒出陣に関しては、1944年に「緊急学徒勤労動員方策要綱」によって通年動員が決定され、1945年には「決戦教育措置要綱」および「戦時教育令」によりついに授業の停止がなされた。近衛文麿首相と東條英機陸軍大臣が戦局分析のために設立した総力戦研究所もまた開戦の4ヶ月前にすでに「日本必負」の結論を出し、両人に対して首相官邸において開戦回避を説明具申していた。大戦における日本の敗戦の確実性は当時から予期されていたことだが、国家の将来の発展を担う人材を養成する高等教育行政が放棄されはじめる事実を追いかけても、日本の敗戦は確実視できることであったのかもしれない。しかし、連合軍の本土攻撃により焼け野原となった日本も、戦後の国家再建により不死鳥のごとく世界政治経済の表舞台へと舞い戻ってくることとなる。その理由にはさまざまな分析が存在するが、少なくとも「教育」が果たした役割もその大きなひとつであったと考える。

長期的に国土の大半を占領された経験などない日本は、占領軍からのいわゆる「民主化改革」への指令に基づき、戦前の体制や思想すべてを否定し、新たな変革を果たすことになる。具体的な動きは速く、1945年8月から同年年末にかけて、学徒動員の解除、復員学徒の復学等の平時復帰措置、高等学校(旧制)教練科の廃止、東京帝国大学の航空研究所・航空関係講座や七帝国大学の神道・日本精神史講座の廃止等、戦時体制期の教育システムの矢次早な解体作業に取り組んでいる 。それは米軍のいう日本の「軍国主義及び極端なる国家的イデオロギー」の破棄であった。また戦時中に教壇を追われていた東京帝国大学の矢内原忠雄・大内兵衛・有沢広巳、京都帝国大学の滝川幸辰、東京産業大学(現・一橋大学)の大塚金之助教授らが復職したことも、「戦後」を象徴していた。

文部省は8月15日当日、文部大臣太田耕造によって「遂に未曾有ノ国難ヲ結果シ、国歩ノ蹉跌ヲ招来スルニ到レリ是レ偏ニ我等ニ匪躬ノ誠足ラズ報国ノ力乏シクシテ皇国教学ノ神髄ヲ発揚スルニ未ダシキシモノ有リシニ由ルコトヲ反省シ」 と文部省訓令を出していたが、9月15日には「新日本建設の教育方針」によって「文部省デハ戦争終結ニ関スル大詔ノ御趣旨ヲ奉体シテ世界平和ト人類ノ福祉ニ貢献スベキ新日本ノ建設ニ資スルガ為メ従来ノ戦争遂行ノ要請ニ基ク教育施策ヲ一掃シテ文化国家・道義国家ノ根本ヲ培フ文教諸施策ノ実行ニトツメテヰル」と宣言する。

戦後占領期の教育改革を主導したのは、占領軍においては米国教育使節団 の勧告(ミッション・レポート)にもとづく米軍のCivil Information and Education Section であり、日本においてはまずは内閣総理大臣所轄の組織として設置された教育刷新委員会 であった。だが、実際にはアメリカは戦時中にすでに対日占領政策の骨格をつくりはじめており、1943年、アメリカ国務省内に設置されたThe Far East Area Committee で占領政策の原型を政策文書として審議していた 。日本の敗戦前年夏には、対日政策文書「軍政下における教育制度」(The Educational System under Military Occupation, PWC-287, CAC-238)が出され、天皇制への扱い、文部省の再編成、教育内容・方法の改革などを主な内容としており、鈴木はこの時期のアメリカにおける対日政策文書の内容は「戦時における対日処理構想の核心は、天皇制の処理(たとえば、日本派と徹底処理派の対立)であったが、教育改革の詳細なプランもみられたのであり、実際の改革の基本線と一致している」と指摘している 。しかし、同時に同文書で「占領軍は、専門スタッフの調達可能性、時間的余裕などから考えて、日本で完全な教育改革を実施することは不可能である。しかし日本の教育の非軍事化の方向づけだけは可能であろう」と述べている ことは、その後の日本の戦後教育改革がどのようなスタンスで進められようとしたのか理解できる。

日本側からの主体的な改革姿勢が、戦後教育改革であり、その戦後の教育改革のすべてを象徴するのは、1947年3月31日付法律25号となった「教育基本法」である。「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない」として、「日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育を確立する」ことを目的とされた戦後教育の出発点ともいえる法律であった。この法律は、教育法規に関しては勅令主義を廃止してすべて国会の制定する法律によることになったことをうけ、教育憲章というべきものである。この教育基本法第6条において、教育機関の設立主体は「法律に定める学校は、公の性質をもつものであって、国又は地方公共団体の外、法律に定める法人のみが、これを設置することができる」とされた。これを補完・具現化したのが、同じく法律26号となった「学校教育法」である。

戦前は、大学令・高等学校令・専門学校令と、別々の勅令に分けられていた高等教育に関する制度設計を、すべてひとつにまとめたのがこの学校教育法である。戦前の高等教育機関をすべて「大学」として再編成した。この戦後の高等教育制度における大学を「新制大学」と呼ぶが、米国教育使節団が高等教育に関して「日本の自由主義思潮は、第一次世界大戦に続く数年の間に、主として大学専門学校教育を受けた男女によって形成された。高等教育は今や再び自由思想、果敢な探求、及び国民のための希望ある行動の、模範を示すべき機会に恵まれている。これらの諸目的を果すために、高等教育は少数者の特権ではなく、多数者のための機会とならなくてはならぬ」 と勧告したことをうけ、専門職的教育制度ともいえる戦前のシステムを放棄して、大学の教育役割を一元化したのである。しかし、新制度では大学教育において女性の進出が開放された し、米国型の実学的学科内容の拡充が図られたことにより大学の教授内容が一挙に拡大をしたことから、学生の学修量の尺度が戦前の講座制から単位制へと移行した。また、大学院が制度として法的に明確化されたことも、大きな変化であった。

明治維新の当初、私学教育の補完機能として公教育をとらえ、次第に中央政府が国立・私立問わず統制するシステムへの変化を遂げた日本の公共教育政策であったが、戦後は私立教育も「公器」であるという認識にたち、その再建に取り組んでいくこととなる。米国教育使節団は私立教育について「私立学校は官公立学校と何等本質的な相違がないのであるから、現在の緊迫した時期に当たって、戦争で蒙った損失を回復するのに国庫や地方庁の補助金が使われてよいならば、官公立と同様に補助金が割り当てられるべきであり、また私立学校に対する公認の寄附に充当される封鎖資金の解除、私立学校に対して行う寄付金に対しても官公立学校に対して行っているのと同様な範囲で免税になるべきであり、なおまた、このような仕方で、私立学校に国庫や地方庁の補助金を与えたとしても、決して学校の自由に干渉してはならないのである」「我々は、私立大学は、新しい機関の創設に関することを除いて、文部省であろうと、如何なる国家行政機関の統制からも全く解放されることが賢明であるという見解を前に述べたのである。現存する私立大学の中に、新しい学部を設置することを認可し若しくは拒否し、又は新しい学科若しくは講座を増設することを承認したりする現存の行政的利権力は、それが過去において如何に賢明に用いられ、また将来においても賢明に用いられるであろうとも、これを除去することが可能であろうと我々には考えられる。同時に我々は、私立大学の職員若しくは教授団は、研究計画を援助するための政府資金からの交付金を受ける資格を保持し続けるのがよかろうとの意見を述べたのである」との考えをもっており 、彼らの後押しや私学関係者の政治的圧力 から1946年の第91回国会において「私学振興決議案」 が可決され、中央政府内においても教育刷新委員会のなかに私立学校問題を扱う特別の「第4特別委員会」が設置された。このような動きの結実が、私立学校の運営規定を定めた1949年の「私立学校法」である。大戦中、戦災被害を受けた私立大学・高等専門学校は全国で82校もあり、被害敷地面積は3万5440坪にものぼった。当時、国公私立大学・高等専門学校に在籍する学生は39万人 いるなかで、私立大学・高等専門学校に通う学生の比重は52%を超えており 、私学復興を助成すること、私学発展を期することは、当時の歴史的敗戦後という社会全般における人的背景を考えれば、必然のことであったように思える。

だが、戦後教育改革全体を俯瞰するとき、まさに三上が五十嵐顕の言葉を借りて指摘しているように、「単純ではなく対立をなす諸過程の複合体として」評価する視点が重要 であり、アメリカによる外圧のみではなく、日本側からの主体的な改革の連続体であったことに積極的に評価すべきである。鈴木は、戦後教育改革の流れが、戦前日本旧支配層の「自主改革論」 にしかすぎないという消極的な評価をしているが、少なくとも戦後教育改革によって、戦前教育の体質から大きく変質したことは間違いがない。三上は戦前の教育行政の特徴を、①教育法規の基準が勅令であり、②徹底した中央集権体制のもとで、③地方教育行政は一般地方行政の一部として官僚統制されていた 、などとあげている。そのため、教育行政の頂点に位置する文部省の行政権限に関してできるだけ縮小させていく動きが戦後教育改革で図られた。戦前の教育行政体系を転換するために文部省廃止論さえも議論された。戦後の新教育行政体制構築のために、教育刷新委員会が1947年に「中央教育委員会」と「文化省」の新設を、1948年には「学芸省」の新設を提案している。中央政府部内でも同様の議論が展開されており、1947年には行政調査部による「新憲法下の行政機構改革の方針」では文部省を「純然たる世話的な」学芸省、文化省に転換させ、内閣総理大臣の管理のもとに学校教育関係事務を掌る中央教育委員会を置くという構想を打ち出し、翌年には同部による「行政機構整理私案」において「文部省の廃止を前提に、学校教育関係事務を掌る中央教育委員会を設け、残りの事務については厚生省と統合した新しい省がこれを担当する」という案が考えられていた 。政党の議論においても、文部省の改廃が提言されている。日本進歩党は、内閣直属の「文教本部」が政策を立案し、実施機関として「文部省」を設置する案を考えている。日本共産党は「最高文化会議」、国民協同党は「学芸省」、民主自由党や社会党は「文化省」(社会党は中央教育委員会も並立させる考え)という案を出していた。だが結局のところ、陸軍省・海軍省・内務省は廃止されたにも関わらず、1949年に「文部省設置法」が制定され、文部省は存続することになる。しかし、一連の論争が大きな論争であったことは間違いなく、文部省は「行政らしからぬ行政」機関として、出来るだけ権限の弱い組織に創られることになった。文部省設置法制定で、戦後の教育行政機関設計は一応の方向性の結実を迎えるが、それまでに様々な行政体系の改革構想も示されている。主なものとして、①大学区=学区庁構想、②学校委員会=「教育委員会」ないしは教育協議会構想、③「地方教育委員会」構想、④公選制教育委員会構想 、などがあがったが、アメリカが対日教育政策を実施する組織の整備をはじめる占領期初期において、文部省側にあって政策立案責任の中心に田中耕太郎がおり、その後に文部大臣として戦後教育改革の象徴法ともいえる教育基本法の制定に尽力した功績を考えれば、田中耕太郎が教育行政再編案として掲げた「大学区構想」こそが、この期間において改革構想の出発点であり、中心課題であったと断じてよいのではないだろうか。大学区構想は単純な教育行政の範囲設定でも、文部省の機能論・改廃問題でもなく、憲法における“国家大権”の整理という敗戦後の日本において重要極まりない性質を有する問題であった。


2.「教育の独立」と大学区構想

田中耕太郎は、1890年鹿児島県に生まれた。東京帝国大学法学部を主席で卒業し、内務省に入省するが、退官した後、東京大学で商法を専門とし教鞭をとる。戦後憲法の草案を書いた松本烝治の門下であり、娘婿となった。戦後、幣原喜重郎内閣における前田多門文部大臣の要請を受けて、東京大学法学部教授のまま文部省学校教育局長に就任し、その後、吉田茂内閣において文部大臣に就任する。日本国憲法への署名、教育基本法の制定など、政治史において重要な足跡を残すが、後に最高裁判所長官や国際司法裁判所判事としても活躍した人物である。

田中耕太郎は、学校教育局長に就任したときから、教育改革構想のひとつとして大学区構想を掲げている。大学区構想の趣旨は、戦前の地方教育行政の内務省系官僚からの支配脱却を中心にしたもので、いわゆる「教育の独立」「教育権の独立」というテーマで後に注目を集めていくことになる。「地方の学校行政に関しては、初等及び中等の諸学校に関する限りに於て、内務省所管の地方行政庁(prefecture)の官吏に依って司られてゐる。此等の官吏の多くは法科出身の教育に未経験な、場合に依っては警察官としての経緯を有する若年者で而も多くの場合一年位しか在職しない。従って此の制度は教育の理想の実現の為には適当だとは云へない。〔中略〕又今後政党政治の復活と共に、曽て存在してゐた地方政党人が地方教育界の人事に容喙するし、地方教育者は彼等に自己の教育者としての品位を抛棄して隷属する弊害も亦顕著になるであろう。此の弊害に鑑みて我々は地方教育行政を地方教育界の自治に委ねるため、初等中等の地方教育行政を一般内務行政から切り離し、全国を各大学をピラミッドの尖端とする七箇位の学区(Academic Disstict)に分けてそれに委ね、文部省が極めて寛大な監督を行ふやうにすることを研究しつつある」 との田中の大学区構想は、文部省内で1946年に「地方教育行政機構刷新要綱」「学区庁設置要綱」(いずれも1月25日付)にて試案の形で具体化されている。この試案では、地方教育行政を内務省から分離させ、帝国大学総長を学区長官として文部大臣が任命し、中等学校以下の諸学校を監督させ、学区庁の下部組織に学区支署を置く、と構想していた 。この際に、大学の総長は民間より選任された委員で構成する「教育協議会」の諮問を受けるものとした 。この高等教育を担う大学を中央政府の行政機関とは別に一個独立させるという考えは、明治期からすでに存在し、議論されていた。1889年に、東京帝国大学の菊池大麓、穂積陳重分科大学長などが、東京帝国大学の立法府からの独立を目的として「帝国大学独立案私考」を発表している 。大学の行政機関としての独立の議論は、そのまま教育行政体系の再編と直結してはいないが、少なくとも教育行政において受け皿となる機関として独立性あるものと、大学が認められていたことは確かであろう。

田中耕太郎はこれらの構想による改革の本質を後に「地方教育行政の一般行政よりの分離独立の必要に関しては、連合軍当局と見解を同じうしていたが、我々としては当初はブロック別な機構を考えていた。それはフランスの大学区(アカデミー académie)制から示唆を得た構想である。フランスにおける大学区はナポレオン一世以来の制度であり、(中略)このフランスの地方教育行政機構は、明治初年のわが国の教育制度に影響を及ぼした。明治五年の「学制」は(中略)フランスの制度を取りいれたものであることは疑いがない。(中略)終戦直後文部省において考究したのは、明治初年の大学区制を採用して、地方教育行政の改革をはかることであった」 と述べている。田中耕太郎が文部大臣に就任する前に、前田多門文部大臣との会談資料として使われた「教育改革私見」にも、制度的方面の問題として「学区制の問題-仏国の例を研究すること」と明確に書かれている 。

しかし、そもそもなぜ、田中耕太郎は大学区構想という形のなかで、フランス的制度を志向したのか。田中耕太郎がフランス的制度に着想した理由を推定すれば、①明治「学制」時代からの行政学的継承性、②ドイツの占領支配から解放されたフランスの1945年当時進みつつあった教育制度改革との時代の並行性、③占領軍によらない自主的な日本側からの教育改革の達成意識、という要素が大きかったのではないか、と考える。フランスはドイツ占領からの解放後、1947年には単線型の統一学校制度の下で教育の平等と機会均等を目指したランジュヴァン・ワロン教育改革を成すが、戦後世界における他国の改革の並行状況というのは、日本側の教育関係者の多くが、占領軍によらない自主的な教育改革の達成を目指していたことを考えれば、その教育制度を参考にしたことは十分に考えられるだろう。また、日本がはじめて近代国家として本格的な教育行政制度を構築しようとした明治学制においては、その制度の特徴にフランス的特徴が多分に含まれていた。尾形の研究によれば、学制におけるフランス(当時)の教育制度との共通点は、43.5%にのぼる 。明治学制における教育行政区分として重要な学区の規定は、田中耕太郎の大学区構想にも通ずる。学区制は、全国3府72県を大きく8つの地域に分画し、これを大学区(大区)とした。この8の大区を32の中区に分画(全国の中区の数は256にのぼった)し、これをまたそれぞれ210の小区に分画(全国の小区の数は53,760にのぼった)する。各学区に1校ずつ大学・中学・小学を設置する計画はこの段階では実現できなかったが、学区ごとに学区取締という行政官を住民の中から任命し、明治期において政府による行政単位の二重構造を可能にした。明治学制は、①学区区分の規定はフランス、②学校設置の基準はドイツ、③学区取締の規定はアメリカ、④督学の規定はオランダの法制度に多くを依っている 。フランスの法制度を最も多く参考にしている理由は、当時のフランスが最高度の文明国家であり、最も法律や制度が整備されていたからであるし、中央集権型国家の近代国家を建設することを早急に要求されていた日本が、フランスやドイツなどの国家制度を最も範としたことは十分理解ができる。また、学制制定の実質的な最高責任者が、フランス法学の第一人者であり、長く日本の社会生活における根本法である民法制定に尽力した蓑作麟祥であったことは、行政法学の継承という意味でも、教育改革の根本において重視されたことは間違いないのではないだろうか。明治教育改革と戦後教育改革の継続性というものを、これらの事実にみてとることができる。だとすれば、田中の大学区構想とは、人的・財政的理由のために失敗した明治学制の、一般行政圏の区割りから独立した教育圏・学区に基づく二重行政の、構築への再挑戦という意味を有していたのではないか、と考える。


3.田中耕太郎の「教育の独立」の本義

田中耕太郎の大学区構想にみる「教育の独立」は、「教育権独立論」もしくは「四権分立論」ともいわれる。立法権・司法権・行政権にならぶ第四の権力として教育行政権が位置付けられ、教育は独自の統治文化をもち一般行政が介入することを拒む、四権分立論を田中耕太郎は唱えた。

田中耕太郎は、「教育の独立」「教育権の独立」の根拠を、教育のあり方の「司法の独立性」との類似に求めている。『司法権と教育権の独立』のなかで「司法と教育とは著しくちがっているが、しかし目的、その活動の性質、およびその政治的意義において著しい類似点をもっている。(中略)法は何が正、何が不正であるかを宣言すると同時に、それを社会生活中に実現して行くことを欲する。従って法は意欲(Wollen)であり、そうしてその意欲を貫徹するために実力を以て装わなければならない。(中略)法は宣言的、理論的な方面と同時に、創造的、実用的方面をもっている。教育はこの点で法に類似している」と述べている 。教育行政の独立した歩みを田中耕太郎は期待し、教育者の官僚支配からの脱却を目指した。戦前の教育行政の反省から、「教育の独立」を田中耕太郎は唱えたのである。

だが、田中耕太郎は「教育の独立」「教育権の独立」を実際の教育現場を担う教育者が濫用することを警戒もしている。教育基本法の成立後、「しかし教育者がその独立を濫用し、本来の使命から逸脱し、あるいは政治的活動に熱狂しまたは教育者の任務が工場労働者、オフィスの労働者等と異なって、財貨その他の経済的価値の生産でなく人格価値の実現にあることを忘却し、言動において一般の労働者とちがうことがなければ、教育の権威を失墜するのみでなく、教育者の特権を要求することができなくなるであろう。そうしてもし世論が何等かの法的措置を講ずることもまた止むをえないものと認めても、これに対し抗議できないであろう」 と述べていることは、「教育権の独立」の本義を理解するうえで、重要な警句であろう。岡は、それまでの田中耕太郎の教育権に関する研究の多くが、「教育の独立」の意味を「教育(教師の教育活動)の教育行政からの独立をその本旨としていた」 ことに対して、田中耕太郎があくまでも教育行政の執行において「国家」「中央・地方教育行政」の政策立案責任を重視していた姿勢をふまえ、「田中の「教育権の独立」論は教師の教育権の教育行政からの独立をその本旨としていたという解釈に対しては、限定的な理解が必要である。田中は、教育の条件整備については中央集権的な組織の頂点に位置する文部省が力を持つことを意図していた。さらに、教育内容については、「政府当局」による決定と「文教行政当局」による実行、「地方行政」との連携を主張し、一般行政の役割を重視していた」 と指摘している。田中の「教育権の独立」論は、教育者を、司法を司る裁判官のように独立権者として位置させる、ことのみに限定的に解釈しては、その本質を見失う。教育行政に対する旧内務官僚への批判や文部省の中央集権的行政支配への批判にとどまるのではなく、文部行政そのものを、新たな福祉国家内の重要な行政使命のひとつであるととらえれば 、田中の「教育の独立」の本義とは、教育者の行政組織からの独立ではなく、およそ「教育活動にかかわる教育行政体系」そのものの国家行政機能のなかでの独立化、といえるのではないだろうか。だからこそ、田中耕太郎は「憲法は司法権の独立を制度的に承認し、この精神を以て司法を不当な支配から守るいろいろな方策を講じている。教育権の独立は直接にはわが憲法中に制度化されていないが、(中略)憲法の学問の自由の保障や教育基本法ならびにその他の教育関係法令中の規定、とくに大学の自治の原則からして帰納できるのである。もし教育政策の重要性が今より一層痛感されるならば、憲法中に立法、行政、司法の三権とならんで、第四権として教育に関する一章が設けられ、教育権が一層完全に保証される日が来ないとは断言できないのである」 と指摘しているのだと考える。教育基本法成立後にみる田中耕太郎の「教育の独立」に関するこの見解 に、田中耕太郎が文部大臣として当初成立を目指した大学区構想をはじめとする戦後教育改革の本来的目的がどこにあったかを理解することができるのである。


おわりに

高等教育の制度設計に注目して、戦後の教育改革期初期の特質を検討してみた。敗戦による占領政策のなかで、前時代の価値観・社会システムを転換することが戦後改革では必要迫られ、実際に「民主化」を経たが、その実相は、近代化を経た日本のシステムの継承性・継続性が試されていた、と指摘することもできる。その挑戦が、田中耕太郎の大学区構想であった。一方で、内務官僚制支配という旧弊を打破する意味において大学区構想や「教育の独立」論は、革新的改革構想でもありえた。これらの相反する矛盾を内包したのが、田中耕太郎らが担った戦後教育改革であったといえるだろう。

「教育の独立」論が、政治・行政からの教育者の独立性の確保にとどまらず、戦後民主化を迎える新たな福祉国家における国家の機能論であるならば、田中耕太郎の教育行政改革構想は、明治学制からの継続性も含めて、「国家」という組織体の定義を議論する政治改革であったはずである。この構造は、「地方分権」をテーマとする現代社会にあって、いまだ十分に社会構造改革のための研究題材となりうる。田中耕太郎の目指した「教育の独立」を果たす大学区構想は、結局は頓挫するが、その後、教育基本法などにその精神は織り込まれた。だが、田中耕太郎が目指した教育改革の本質は成し遂げられていない。しかし、少なくともその目指したものは、アメリカの「押し付け」ではなく、日本人の「自主的な」構造改革であったはずである。

戦後教育改革に関する先行研究は、資料研究の発展のおかげで、事実調査に関してはほぼ限界に到達しているように思われる。だが、政府側による最終的な政策決定の場である閣議は議事録が残らないために、どのような議論がされたのか詳細を調べることは難しい。吉田茂をはじめとする戦後改革を担った宰相たちがどのような意識・意見をもって、教育改革に臨み、閣議で各国務大臣と議論したのか、その究明が今後の戦後教育改革期研究の課題であるに違いない。


<引用文献>
・田中耕太郎.『教育基本法の理論』有斐閣.1961年
・田中耕太郎.「司法権と教育権の独立」永井憲一編『文献選集 日本国憲法8 教育権』三省堂.1977年
・遠山敦子.『こう変わる学校 こう変わる大学』講談社.2004年
・鈴木英一.「教育基本法の成立事情」家永三郎教授東京教育大学退官記念論集刊行委員会『家永三郎教授東京教育大学退官記念論集3 日本国憲法と戦後教育』三省堂.1979年
・堀江宗生.『大学教育の理論 大学法制と学生指導』鷹書房.1985年
・丸山高央.『大学改革と私立大学』柏書房.1992年
・三上昭彦.『戦後教育改革と教育委員会制度-教育委員会制度の歴史と理論-(1)-』明治大学人文科学研究所紀要.1冊.1962年
・平原春好.『教育行政学』東京大学出版会.2006年
・鈴木英一.『教育基本法の制定』学陽書房.1977年
・鈴木英一・平原春好編『資料 教育基本法50年史』勁草書房.1998年
・尾形裕康.『学制実施経緯の研究』校倉書房.1963年
・岡敬一郎「田中耕太郎の「教育権の独立」論の再検討-中央・地方教育行政と教師との関係に注目して-」日本教育行政学会『日本教育行政学会年報』.第27号.2001年
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