2011年08月 / 07月≪ 12345678910111213141516171819202122232425262728293031≫09月

--.--.-- (--)

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

Lancers.jp
--:--  |  スポンサー広告

2011.08.28 (Sun)

そうだ、柴又に行こう 3



最後に、柴又帝釈天を参拝しに行きました。

柴又帝釈天は日蓮宗のお寺で、正式名称は『経栄山 題経寺』と言います。



このお寺には、日蓮がみずから刻んだと言われる帝釈天の板本尊が安置されていると言われます。天明の大飢饉の頃、住職の亨貞院日敬がこの帝釈天を背負いながら、江戸の町を練り歩いて信仰を説いたそうです。柴又帝釈天の発展はその頃からといわれています。

広い敷地の中では、猿まわしが催されていたり、地域住民の憩いの場となっていました。



帝釈天前から駅まで参道が続いており、観光名所となっています。

ぜひ、名物の草団子を買って、ゆっくり柴又の町を歩いてみてくださいね☆

Lancers.jp
スポンサーサイト
23:37  |  【 こんな処に行ってきました 】  |  トラックバック(0)  |  コメント(0)

2011.08.25 (Thu)

そうだ、柴又に行こう 2



矢切の渡しの手前には、カメラ部品を製造していた山本家が所有していた屋敷である『山本亭』があります。

1991年から葛飾区の所有物として一般公開されています。



100円で観覧することができます。

長屋門の形式をとりながら、洋風のデザインを採っている門を通り抜け、旧玄関から入っていきました。



和洋折衷の建物と、純和風の庭園が有名です。その庭園は、アメリカの日本庭園専門誌『JOURNAL OF JAPANESE GARDENING』のランキング調査で、2004年~2007年まで3位にランクされていました。



居宅部分はいま喫茶ルームとなっており、日本庭園をみながら、お茶菓子などを食べることができます。



山本亭を出ると、『男はつらいよ』に出てくるセリフが、看板となって、羅列的に掲示されていました。

寅さんという観光資源に誇りをもって町づくりが行われていることを改めて確認することができました。

Lancers.jp
22:51  |  【 こんな処に行ってきました 】  |  トラックバック(0)  |  コメント(0)

2011.08.22 (Mon)

そうだ、柴又に行こう 1



今回は柴又に行ってきました。そう、あの映画『男はつらいよ』の舞台になった下町情緒豊かな町です。

京成電鉄金町線の駅のひとつである柴又駅は、改装時に山田洋二監督の意見もあって、純和風の駅となりました。



駅前には『寅さん』の銅像がたっています。



柴又帝釈天を中心につくられた町で、その門前町が有名ですが、まずは対岸の千葉県松戸市・矢切地区とを結ぶ渡し舟『矢切の渡し』を体験しに行くことにしました。



駅から徒歩15分もすれば、松戸と柴又の真ん中を流れる江戸川にたどり着きます。

片道100円で渡し舟に乗ることができます。小さな船で、前日に雨が降っていたので、川の水量も増水していて、ちょっと怖かったです。。。

だけど、なかなかできない体験でした☆




Lancers.jp
17:55  |  【 こんな処に行ってきました 】  |  トラックバック(0)  |  コメント(0)

2011.08.19 (Fri)

そうだ、沖縄へ行こう 08



首里城を見学した後、沖縄県立博物館・美術館を見学してきました。
とてもきれいな施設で、大きな満足感がありました。



とてもきれいな施設で、大きな満足感がありました。
沖縄の『日本史』に関する歴史観が知りたいと思い、足を運びました。



古代においては日本との連帯性が語られ、近世・近代においては琉球王朝の独立が語られる、そして敗戦・復帰へという構図でした。以前、見学した千葉県佐倉市の国立民俗博物館とは違い、あまり感情論に走るような展示はなかったと思います。


沖縄問題がクローズアップされながら、あまり沖縄の歴史を知らないのが、多くの日本人ですから、修学旅行であれ、カップルの旅行であれ、ここは訪ねたほうがいいと思います。十分に楽しめることをお約束します。



博物館の帰りには、DFSギャラリアに行ってきました。ブランド品など関税が免税されているショッピングモールです。沖縄ショッピングの大きな魅力でもあります。

この免税制度を、特定免税店制度といい、国内産業保護の観点から、沖縄の振興だけに施行されているシステムだと言えます。

ぼくは、この制度は沖縄だけでなく、日本全国に認めていいのではないかと思っています。沖縄は経済特区ももち、この制度でインバウンド戦略を有していますが、果たして沖縄だけの特徴ある制度でいいのか疑問です。むしろ、全国的にその配置を展開することにより、日本全体のインバウンド戦略へと転換していったほうがいいと思います。

一時的な観光戦略でいまの沖縄経済を維持するより、持続ある成長戦略を描くべきではないでしょうか。これまでの金融特区・IT特区などの活用だけでなく、教育知の集積や、全島的な交通インフラ整備を急ぐべきだと思います。都市基盤の整備をはからなければ、流動性が確保されないのですから、経済成長も人口増加もないはずです。



最後の写真は、那覇空港の1枚です♪。

Lancers.jp
16:55  |  【 こんな処に行ってきました 】  |  トラックバック(0)  |  コメント(0)

2011.08.16 (Tue)

そうだ、沖縄へ行こう! 07。



首里城の正殿を見学したあと、お城の周りを散策しました。
「円鑑池」(1502年建造)という、首里城からの湧水や雨水を集める人口池のまわりを散策していると、あひるの親子がきれいに並んでお散歩をしていました。
公道もすぐそばにある場所なのですが、このような場面に遭遇できて、幸せをわけてもらった気分です。
円鑑池は、沖縄戦で破壊されたそうですが、1968(昭和43)年に再建されました。

沖縄戦で破壊されながら、後に再建されたという意味では、この円鑑池の真横にある弁財天堂もそうです。
薩摩との闘いや沖縄戦で破壊されたましたが、円鑑池と同年に再建されています。



首里城を訪問した時に、ぜひあわせて訪問したほうがいいとおススメするのは、琉球石灰石の石畳でできた坂道:金城町石畳道です。



傾斜のすごさや凸凹の大変さはありますが、まさしく『THE・沖縄!』という感じで、とても雰囲気のよいところです。沖縄本来の民家などを体感するのにも、とてもいいのではないでしょうか。



坂道の近くには、聖地ともいわれる『アカギの大木』群がある森林もあります。
道の途中で、左に曲がり、民家の中を抜けていくと出会うことができます。
木の周辺には、沖縄戦の名残である防空壕跡もあり、大変重い空気が漂っています。
聖地としての重さなのか。この一帯は激しい沖縄戦の時に爆撃をまぬがれた土地でもありました。
その森にたったひとりでいると、本当に怖かったというのが本音のところです。
このアカギの大木の根元には、小さな祠があります。
旧暦6月15日に神さまが降りてきて、願い事を聞いてくれるという、言い伝えもあります。
それも本当かもな、と思うほどの厳粛な空気感でした。

この森の入り口には、琉球王朝による宗教文化である内金城嶽が設置されています。
その説明には、このように書いてありました。

琉球国由来記等々の文章によると、340年前、豊かな森だったこの辺りを、村人が通る度に霊気に打たれるので、これはただ事ではないと時の王府に願い出て拝所を置き、神々と王府との交流の場となった。



この石畳道、下から見上げると、こんな感じなのです☆

Lancers.jp
00:29  |  【 徒然と 】  |  トラックバック(0)  |  コメント(0)

2011.08.15 (Mon)

そうだ、沖縄へ行こう! 06。



首里城正殿がある御庭(うなー)に入ると、右側に「番所」と「南殿」があります。
ここは、日本本土的な儀式を行うところで、日本的建築の二階建てになっています。
いまは、琉球王朝の歴史や漆器・絵画などの美術品が展示されています。

そして、南殿を抜けて、「正殿」に入ることになります。
百浦添御殿(ももうらそえうどぅん)と呼ばれ、沖縄最大の木造建築物だそうです。
二層三階建ての建物になっていました。
一階を「下庫理(しちゃぐい)」、二階を「大庫理(うふぐい)」と呼び、写真は二階をうつしたものになります。

写真でお分かりになると思いますが、琉球国王が座る玉座になります。
御差床(うさすか)と呼ばれる空間になります。
龍や金など、大陸王朝風というか、まぁ、派手です。
観光客と思われる中国人の団体は、盛り上がっていましたwww

玉座の後ろにある額をみれば、そういう話になると思います。
なぜなら、後ろの「中山世土」という扁額は、清の康煕帝が書いたものを再現したものだそうです。
その康熙帝が、「琉球は永遠に中山(琉球王)が支配する」と証明したものなのですから、沖縄接収論を唱える現在の大陸中国人の方々からすれば、とても嬉しい内容のものなのではないでしょうか。



資料として、王冠のレプリカなども展示してありました。



正殿を出ると、南殿の真向かいである「北殿」に入ります。
ここは昔、琉球王朝の官僚の人たちが働いていた場所です。
いまは、資料館とお土産屋さんになっています。
首里城の模型とかも置いてました。

この模型は、首里城の御庭を説明しやすいな、と思いました。
首里城の真ん中にある紅い道がありますが、この中央の道は「浮道」と言います。
国王や大陸からの使節しか通れなかったそうです。
だから、家臣たちはここを通れない。
そういうのがよく分かる模型かな、と思いました。

Lancers.jp
00:19  |  【 こんな処に行ってきました 】  |  トラックバック(0)  |  コメント(0)

2011.08.14 (Sun)

そうだ、沖縄へ行こう! 05。



モノレールの終着点は、首里城駅になります。
ぼくは、少し歩きたいなと思って、首里城の手前にある儀保駅で降りてみました。
しかし、これが間違いでした。
迷って迷って・・・、本来なら徒歩15分ほどで到着するはずが、倍の30分以上かかってしまったような気がします(-_-;)。

首里城についた頃には少し小雨が降り始めていました。
手前の休憩センターのお土産屋さんで、傘を買いました。

守礼門は、第二尚氏による琉球王朝の4代目尚清王(在位1527~1555)の時に建てられたそうです。
1530年頃といえば、上杉謙信が生まれた年ですね。戦国時代の英雄たちが、きら星のごとく登場する時代ですね。
戦国時代に、琉球王朝と日本本土はどんな交流をしていたのでしょうね。



日本の城郭と違い、防戦を主目的としていないと聞いていましたが、意外に、階段が長かったり、いやいや、僕は攻めれないな(笑)、と思いました。城壁全体が結構大きい気がしました。



首里城から。市内が見渡せます。
夜景とかきれいだろうなぁ、と思いました。



首里城は、政治の中心地なだけでなく、宗教的な聖地でもあります。
その儀礼施設のひとつが、この写真にある首里森御嶽です。
沖縄や琉球、またこの北緯30度以南地域の宗教文化に関しては、僕もまだ勉強不足なので、これから少しずつ色々と本を読んだり、訪ねたりして勉強してみたいと思います。民俗風習というのは、とても興味があります。都や八重山、奄美とかそういう地域的なことを考えると、沖縄地域や琉球地域のひとつの宗教文化という風にひとつに括ることはできない気がするので。



首里城は何度か火に包まれるという事件がおきていますが、大きな転換点は、第二次世界大戦でした。
沖縄決戦により、首里城は焼失しました。
また、戦後にも、この跡地に琉球大学が設立され、かなりの城郭遺構や街並みが破壊されてしまったようです。

本格的な復旧作業は、沖縄が日本に復帰してからです。そして、やっと2000年に「首里城跡」として他のグスクなどとともに「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の名称で世界遺産に登録されました。
旅行した時も、なにか修復作業をしていたようです。

ぼくは、森総理の沖縄サミットでのイメージが強く残っています。
あの時の中継は、ライトアップがきれいだったなぁ、と覚えています。
Lancers.jp
22:48  |  【 こんな処に行ってきました 】  |  トラックバック(0)  |  コメント(0)

2011.08.13 (Sat)

そうだ、沖縄へ行こう! 04。



県庁前駅から、波の上ビーチの方向に徒歩15分ほどで「福州園」という庭園が見えてきます。
観光本を読んでいたら、「無料」ということだったので、見てもいいかな、と思い、たずねてみました。



なぜ、沖縄・那覇に中華式庭園があるかといえば、琉球王朝時代の遣唐使の受け入れが福州だったそうなのです。
その縁で、福州市と那覇市は姉妹都市を締結しているそうなのですが、その10周年を記念して、造られた庭園だそうです。



でも、観光客はあまりいませんでした。
沖縄に来てまで、中華式庭園を見ても・・・ということではないでしょうか(-_-;)。
中国人のヒトかな、と思う観光客はいました。日本人はほとんどいなかった気がします。



ただ、あまりヒトがいないし、無料なので、近くで働いているサラリーマンなどのヒトは、お弁当持ってきて、ランチなど食べると、気持ちがいいかもしれません☆。滝もあるし♪
Lancers.jp
13:08  |  【 こんな処に行ってきました 】  |  トラックバック(0)  |  コメント(0)

2011.08.12 (Fri)

そうだ、沖縄へ行こう! 03。



県庁前駅を降りると、国際通りと県庁があります。
とても大きな建物だな、と思いました。
あとで調べてみると、この県庁舎は黒川紀章さんが設計したんですね。
どうりで、唐突な建物の誕生だったわけでwww。
同地には戦前には戦前の県庁庁舎があり、戦後には琉球政府の庁舎があったそうです。



県庁を右手にみながら、正面に、沖縄観光で有名な国際通りがあります。
この国際通り、やたら長い。かつ直線なものですから、新潟競馬場かここは、と突っ込みたくなるほどです。
全長で1.6キロメートルあるそうで、戦後復興の姿と重ね合わせた時、「奇跡の1マイル」とも呼ばれているそうです。
この国際通りの名前、その由来は戦後占領期にあります。
詳しい理由は、国際通りホームページの詳細を読んでいただきたいと思いますが、沖縄決戦で戦死した、ピューリッツァー賞受賞者であったアーニー・パイルの名前を、現地の沖縄人が開館した映画館につけたことが、その由来になっていく理由になったそうです。
通りに存在した「アーニー・パイル国際劇場」が、やがて「国際通り」と名付けられていくことになったそうです。



国際通りに来たからには、「平和通り」をのぞかなければ、観光(?!)に来た甲斐がありません。
やっぱり、デジカメを持った観光客が多いですね。
「沖縄の台所」と言われるように、食材の豊富さは渡沖する者に驚きを与えます。
他にも、定食屋さんや、アクセサリー屋さん、Tシャツ屋さんなどもありましたよ☆



国際通りを一通り散歩した後は、ホテルまで歩いて帰ってみることにしました。
その街のことをよく知るには、歩くのが一番です♪。
面白いなぁ、と感じたのは、沖縄テレビ放送でした。
普通のマンションじゃん、と。
テレビ社屋としてもっと立派なものがあるのかなぁ-と思っていたので、少し驚きでした。

沖縄って、道が広い。
Lancers.jp
00:01  |  【 徒然と 】  |  トラックバック(0)  |  コメント(0)

2011.08.11 (Thu)

そうだ、沖縄へ行こう! 02。



沖縄に旅行に行ったのは、「沖縄県立公文書館」に行きたかったからです。
なぜかというと、その年の教育行政学会、教育史学会、関東教育学会で発表するときの資料が欲しかったからです。
僕の研究対象には、『占領期の沖縄教育行政』の分析が含まれていたからです。
どうしても、沖縄研究は、沖縄現地に入らなければ中々進みにくいものです。



沖縄県公文書館で、文書を閲覧したり、コピーしたりするためには、利用者登録をしなければなりません。
有効期間が1年間というところに、少し不便を感じます。
登録IDで資料の取り出しなどをお願いします。



色々と資料を取り寄せたり、文献を読んだのですが、最も欲しかったのが、写真にある『中央教育委員会議事録』のシリーズでした。
米軍占領期の沖縄というのは、一般行政権とは別に「教育行政権」というのが特殊な形で独立していました。
その形を象徴するのが、中央教育委員会でした。
その中央教育委員会がどのように教育改革を図ろうとしていたのか、それを議事録から読み取りたい、という意図です。

歴史研究という作業は、「発掘」や「発見」「探検」という気がします。
真っ暗な洞窟から、とても大切なキラキラ光る宝物を探し当てた時の喜びに似ている気がします。
時には、それが「落胆」というものになる可能性もありますが。
でも、どちらも、とても大切な研究にとっての「想い」だと思います。

また、今年も沖縄各地に研究書類を探しに行きたいと考えています☆

発表した内容に関しては、↓をご覧いただければと思います。
http://ci.nii.ac.jp/naid/40018752800
Lancers.jp
00:00  |  【 こんな処に行ってきました 】  |  トラックバック(0)  |  コメント(0)

2011.08.10 (Wed)

そうだ、沖縄へ行こう! 01。



最近、旅行の報告をしていませんでした。昨年(9月)、旅行した沖縄のことを報告します。
写真ではよく分からないかもしれませんが、実は台風が直撃した旅行でした。
羽田から那覇まで、2時間30分ほどで到着します。



ホテルまで、空港から出ているモノレールで移動します。
モノレールから見る風景は、少し台湾に似ているような気がしました。



ホテルは、楽天から見つけた「ロワジールホテル」というところを予約いたしました。
那覇駅から5個めの駅に、旭橋という駅があります。
旭橋駅を降りて、徒歩10分ほどで到着いたします。

とても、大きく広いホテルでした。
部屋に入ると、窓からは那覇軍港が見え、景色のよいところだな、と思いました。
ホテル全体もきれいで、清掃員の方たちもとても笑顔がすてきで、トレーニングの行き届いたホテルだと感じました。
ぜひ、宿泊されるホテルの候補に入れてみてください☆



沖縄に入った初日は、そのまま部屋に荷物を置き、沖縄公文書館に向かいました。

Lancers.jp
22:26  |  【 徒然と 】  |  トラックバック(0)  |  コメント(0)

2011.08.09 (Tue)

ロンドンの暴動はなぜ拡大化するのか。

ロンドンの暴動は、多くの人が驚いたのではないでしょぅか。
ロンドンばかりでなく、英国全体に広がりつつあり、すでに問題は英国全体の安全保障レベルまで引き上げられています。

そもそも、この暴動は、トッテナムという地域で黒人の青年が警官に射殺されたところからはじまります。このトッテナムという地域は、貧困層が集中する地域です。そして、この黒人の青年がなぜ警官に射殺さけなければならなかったのかというと、(もちろん、最終的に射殺してしまった責任もあると思うのですが)彼が『麻薬密売人』の可能性があったせいなのです。イギリスだけでなく、欧米諸国の貧困層地域において「麻薬」という問題は大変な重みを持っています。この部分がまったく大部分の日本人には、幸いなことに理解できません。このような地域は、元々、公権力と対立を起こしやすい地域であり、「麻薬対策」を通して「差別」問題が折り重なってしまうという意識を醸成してしまいがちなのです。それが今回は発火点となってしまいました。

しかし、問題はそれだけではないのだと思います。僕自身の推測ですが、今回の事件は、これまで潜伏していた「英国病」が発病した事件なのだと思います。

キーワードは、「階級制度を緩和させる福祉国家制度」と「欧州統合」が引き起こす「学費問題」です。

英国の教育制度は社会の階級制を根底とした中等教育を中心とする複線型教育制度を、その特徴としています。英国の教育改革の中心課題は、「教育の大衆化」というものでした。より多くの国民に教育制度に参入できる機会を増やしていくことが、与野党変わらない政策目的でした。厳然とした階級社会であればこそ、当然であったのかもしれません。

1922年、「すべてのものに中等教育を」のスローガンが労働党により掲げられました。1944年には、この政策方針を実現する「バトラー法(Butler Act)」が成立します。労働党そして保守党の戦後のケインズ型福祉国家戦略は教育投資の拡大路線を認めることになりました。しかし、拡大しつづけるケインズ型福祉国家戦略は国家財政を逼迫させ、いわゆる英国病といった社会停滞をもたらすことになりました。1978年には労働組合のストライキにより社会混乱が起きた「不満の冬」の到来により、政権は英国民の信頼を失った労働党から保守党に移り、マーガレット・サッチャーが首相の座につくことになりました。

サッチャーは英国民の福祉への依存から脱却させ、自由に個人が競争し、正当な評価を受けることのできる社会を目指して、それまでの結果の平等主義を目指す教育制度の改革に取り組むことになります。この保守党による改革の方向性を教育政策において結実化させたのが1988年の教育改革法でした。その後の英国の教育改革の先鞭をつとめる1988年の教育改革法のキータームは「競争主義」「市場原理」「集権化」です。サッチャーのあと、ジョン・メージャーが首相になりましたが、1991年白書『高等教育:新たな枠組み』および1992年の継続・高等教育法で「大学とポリテクニックおよびカレッジ間における競争の促進が、政府の望む高等教育の発展にさらに寄与する」と位置づけられ、教育の大衆化を図るなかではじめて高等教育機関を頂点とした累進的教育制度を完成させました。1990年代以降の英国の高等教育における改革ベクトルを決定づけたのは、1997年に発表されたレポート『学習社会における高等教育』です。通称、デアリング報告書とよばれます。デアリング報告書は、1)生涯学習社会への移行、2)研究・教育評価制度にもとづいた政府交付金制度の強化、3)受益者負担にもとづいた学生からの学費徴収、をその主な内容としていました。ここで、ひとつ「学費問題」というものが、新たな英国の政策課題として潜伏していくことになります。

しかし、サッチャーとメージャーが推し進めた新自由主義的教育改革は「社会格差」を問題化させ、「第三の道」という新社会民主主義路線を打ち出したトニー・ブレア率いる労働党が政権の座につくことになります。ブレア政権は重要政策課題の第一に「教育」を掲げ、1998年白書『21世紀の高等教育(Higher education for 21 century : Response to the Daring Report)』をはじめとして次々に政権関連文書を発表していきました。ですが、教育政策改革を経済政策として位置づけたのは保守党と変わりはなく、1)英国の国際競争力を向上させるために労働者の技術水準を高め、2)貧困層を経済的に自立させることを目的とした方向性に変わりはありませんでした。その意味では、教育政策の方向性は保守党と労働党では、連続化していたとみてよいのではないでしょうか。それはブレア政権がメージャー政権で作成されたデアリング報告を尊重、支持したことからも判断できます。

デアリング報告による改革の方向性は、ブレア政権において2004年に高等教育法を制定させることで継続されました。これは、大学毎によって学生の授業料を自由に設定できるようにした法律です。ただし、自由化設定によって歪んだ大学格差が生じてはならないために2003年白書によって提案されていたOffice for Faire Access(以下、OFFA)も同時に設立されました。このOFFAの創設理由は、2002年に発表された全英監査局の監査報告レポート『イングランドにおける高等教育への広範な参加』において「現実には1990年代を通じて公平な機会の提供が十分なされていないのではないか」と指摘されていたように、英国の教育改革・社会改革にはつねに「公平性」の問題が横たわっていたからです。

労働党のブレア政権が学生にたいして学費値上げと学費徴収を志向した理由は、2001年の労働党の総選挙マニフェストに答えを見出すことができます。労働党は「18-30歳の大学進学率を2010年までに50%にひきあげる」と公約しましたが、これは教育予算の大幅な増加をまねきました。同じくマニフェストで学費の値上げを行わないと決めていましたが、ブレア政権は学費値上げと学費徴収を志向・決断せざるをえなかったのです。ブレア政権の高等教育社会に向けた政策は、逆に「格差」をうんでしまうことになり、この歪んだ構造は労働党のブラウン政権を経て、政権交代後の保守党・自由民主党連立政権においても変わりがありません。そして、新政権であるキャメロン政権は、政府財政の再建を何よりも至上命題として掲げ、それは大学学費にも影響を及ぼしました。

学費問題は、「欧州統合」という視野からも問題となりました。これは英国だけでなく、欧州全体の問題となっています。

1998年5月、パリ大学創立800年を記念する式典が開かれました。そのテーマは「ひとつのヨーロッパ大学に向かって」というものでした。式典に出席していた仏国、伊国、独国、英国の教育担当大臣たちはその場で「ソルボンヌ宣言」というものに署名します。欧州市民の移動性と就職の可能性を高め、大学制度発祥の地として「知識のヨーロッパ」を再確立するために、欧州共通の高等教育圏を構築するための宣言書でした。ヨーロッパの教育担当大臣たちは翌年に伊国のボローニャに集結し、ソルボンヌ宣言の方向性を引き継ぎ、2010年までに欧州共通の高等教育圏(European Higher Education Area : EHEA)を構築する声明を発しました。「ボローニャ宣言」と言われます。これは、欧州内の高等教育制度を同一化し、欧州全体を学生や教師たちが自由に移動する教育・研究の舞台として再設計することを目指した宣言です。競争激化が止まらない世界化のなかで、勝ち残っていく競争力・付加価値を獲得するために、また、「欧州の教育」の本性を取り戻そうという決意を、欧州統合化の中で政策課題として提議したのです。

しかし、このチャレンジは、欧州全体に「学生による蜂起」を促すことになってしまいました。この改革は、各国で「公立」大学を「法人化」させることに繋がっており、極めて無償性に近かった学費制度を政策転換してしまいました。各国では、「学費値上げ反対」を訴えた過激な学生デモが現在まで問題となっています。


このように、今回の英国のロンドン暴動は、すでにその原因が潜伏しつづけていたのです。それが、「貧困問題」「差別問題」「麻薬問題」「階級問題」「赤字財政」「景気対策」「学費問題」という複数の原因がリンクしあい、暴発してしまったというのが、暴動事件の本質でしょう。来年には、ロンドンでオリンピックが開かれますし、これ以上放置しておけば、IRAの問題までにも火がつきかねません。これは、英国の社会特質の問題ですが、安全保障問題でもあります。英国中央政府は、キャメロン首相をはじめ、「国家危急の事件」と受け止めて対処にあたらなければ、暴動はますます拡大化していくでしょう。

財政再建を図らねばなない一方で、景気回復のために公共投資を拡大化させ、
国民の生活自立意識を高める一方で、貧困層への福祉制度を充実させ、さらに中間層の税負担への不満を緩和させる、
この矛盾に満ちた政策課題を一体どのようにして解決しようとするのか、キャメロン政権に英国の興廃のすべてがかかっています。
Lancers.jp
17:01  |  【 徒然と 】  |  トラックバック(0)  |  コメント(0)

2011.08.08 (Mon)

日本・韓国・北朝鮮の歴史認識から考える『未来志向」という図式。

最近、男性タレントのツイッタ―発言などにより、テレビ番組の編成における「韓流ブーム」の問題指摘や、竹島問題を調査することを目的とした自民党議員による韓国入国を韓国政府により拒否された問題などが、社会的問題として提議されました。

日本と韓国、もしくは北朝鮮を含む朝鮮文化地域とは、隣国同士でもあるにもかかわらず、多くの問題を長年抱えています。

その問題のひとつに、歴史問題があることは誰もが認めるところだと思います。

日本が朝鮮地域を統治した事実に対する評価は賛否両論あると思います。
私たち日本人ではなく、朝鮮民族の方がどのように考えているのか、賛否両論を通して、その問題の本質を考えてみたいと思います。

まずは、日本統治に対して否定的な意見を紹介したいと思います。
朝鮮総連中央の副議長をつとめた白宗元さん(1923年生まれ)という方が、2010年に岩波書店から出版された『在日一世が語る 戦争と植民地の時代を生きて』という本から、抜粋紹介したいと思います。

「はじめに
やむことなく過ぎ去っていく歳月は、まことに早いもので、私はいつのまにか86歳になりました。時折、これまで歩んできた道を改めてふりかえってみることがありますが、随分いろいろなことがあったなと思います。私たちの世代は、満州事変、中日戦争、太平洋戦争、そしてその合間に上海事件(1932)や実際には大きな戦争であったノモンハン事件と、ほとんど戦争のなかで育ち、戦争のなかで生きてきたようなものなのです。朝鮮人は日本帝国主義による過酷な植民地支配に加えて、これらの戦争の重圧のもとで生きなければなりませんでした。
私はこうした日本の植民地支配・戦争の暗い谷間と敗戦によるつかの間の解放の喜び、そして長くつづく民族分断に苦しむ時代を、さまざまな体験をしながら朝鮮、満州、日本で生活してきました。これは波乱万丈の生き方のように思えるかもしれませんが、戦前から生きてきた多くの朝鮮人にとってこうしたことはよくあったことで、私だけが特別の経験をしたわけではありません。
今年は「韓日併合」100年の節目にあたります。今の若い人たちは、平和な環境の中で高度経済成長期に育ってきたので、植民地に対する抑圧がどんなに過酷で悲惨なものであり、戦争というものがどれほど過酷で恐ろしいものであるかを体験していません。また学校でも歴史、とくに現代史については十分に学習していないとも聞いています。だから私はこの本の中で、自分の体験や見聞とともに、できるだけ当時の時代背景についても語りたいと思います 」


では、同じ2010年に発表され、上の白さんの意見とは違う韓国仁荷大学の教授をつとめていた朴贊雄さん(1926年生まれ)の意見(『日本統治時代を肯定的に理解する 韓国の一知識人の回想』草思社,2010年。)を紹介したいと思います。

「創氏改名の実際
南次郎総督(昭和11年~17年)は、非常に精力的に内鮮一体実現のために努力した人物であった。これは彼の良心の発動であり、彼はこれが日本と朝鮮、両民族のためになるとの確信をもって推進したに違いない。彼の唱導によって推進された二大政策に、創氏改名と志願兵制度を挙げることができる。

南次郎総督の好意から発想
朝鮮人の名前は姓(家族の苗字)が一字(例外的に二字)で名が二字(例外的に一字)の組み合わせになっている。これに対し、日本人の名前は姓(家族の苗字)が二文字(一字や三文字の場合もある)で、名が二文字か三文字(一字の場合もある)の組み合わせになっている。しかし一口に言って、その名を見ただけで朝鮮人か日本人かは、たちどころにわかるようになっている。戸籍などを調べなくても、名前だけでそれがはっきりわかるのである。
朝鮮人の名前を見ただけでは、日本人と区別がつかないようにしようとしたのが、南総督の創氏改名の基本的なアイディアであった。それで朝鮮人の元の姓は戸籍上に残しておきながら、戸主が新たに氏を創設して、名乗るときには姓の代わりに氏を名乗るよう決めたのである。
名前の付け方も朝鮮人と日本人と全然違う。それで名前も、この機会に日本式に変えるよう奨励した。こうすると、その名前だけでは朝鮮人と日本人の区別がつかなくなり、それだけ両民族が近付いたことになると考えたわけだ。僕はこれを、南総督の好意から出た発想であると受け止める。朝鮮文化の抹殺を図る陰謀や悪意からきた仕業だとは考えない。
日本植民地時代から今に至るまで、日本に居住する朝鮮人らは通名という日本人名を持って暮らしている。これは日本政府が決めたのではなく、韓国人たちが自ら望んでこの通名制度を認めてもらっているのであり、これもあからさまな差別を避けるためのものである。
植民地時代の、朝鮮在住朝鮮人らは、当時このような通名を自ら望んだのではないけれど、この創氏改名制度に反対もしなかった。地方によっては、ある程度強制されたところがあったかもしれないが、京城では洞会(洞事務所)や学校などから強勘されたというハナシは聞いていない。それでも韓国人らは80~90%ほどが進んで創氏改名に応じた。創氏改名をすれば外見上、日本人と韓国人の区別はつかなくなるが、戸籍の上では元の姓はちゃんと残っているのだから、姓を奪われたという非難は当たらない。

同意しがたい高崎宗司教授の論調
僕の手許に津田塾大学、高崎宗司教授の手になる『植民地朝鮮の日本人』という題の岩波新書本がある。
彼はこの著書で、植民地時代の朝鮮では、日本の官憲ばかりでなく、数多くの日本の民間人がのしていって侵略行為に積極的に加担したことを、実証的に丹念に記載している。しかし彼は1944年、すなわち終戦前年の生まれであり、植民地時代の朝鮮に身を持って接した経験はない。
その当時朝鮮で生まれ、朝鮮で育った僕は、彼の論調には同意しがたい点があまりにも多い。」


白さんの意見が、いわゆる「通説」と言われるものでしょう。しかしながら、同世代の白さんと朴さんとで、なぜこのように意見がことなるのでしょうか。

歴史認識というのは、様々です。日本人と朝鮮民族の間でさえ、違う歴史観が存在するように、同国人の中でさえその差異はあります。それは、それぞれの「体験」を通した「事実」から、「真実」が形成されてしまうからです。そして、それはなにも歴史認識だけの問題ではありません。日本と韓国・北朝鮮が抱える問題は、「戦後」という世界にあって、「ドミナント(あるべき)」ストーリーが固定化してしまっている点にあるのではないでしょうか。そして、そのストーリーから外れるストーリーを、否定・抹殺する思想傾向が存在する。これでは、いくら努力しても、「未来志向」に歩みを踏み出せるはずがありません。どちらの意見を肯定しようが、否定しようが、それは個人の「自由」な意見です。問題は、どちらの意見にしても、その意見というものを「絶対」視することに危機を覚えるのです。保守派は戦後社会の歴史認識の是正を図ろうとしています。しかし、一部の保守派は、その歴史認識の形成において、彼らが批判する戦後民主主義思想によって継続された左翼教育思想というものと全く同じ手法を取ろうとしています。「絶対」を歴史認識で位置づけることは、「教育の死」であると思うのです。そうなれば、「未来志向」は誕生しない。

そういう方向性を考えるうえで、日・韓・北の歴史認識問題は、格好の材料なのだと思うのです。
だからこそ、私は私で、私の歴史認識を堂々とこれからも語っていきたいと思います。それは、相手の意見や思想もまた奥深くまで聴く「寛容」の精神を最も生き方の根幹に置く「保守」派の一人であると誇っていきたいからなのです。
マスコミの問題や領土問題、拉致問題はそれぞれ別々の視点を必要とする問題ですが・・・

Lancers.jp
17:01  |  【 想う日本のこと 】  |  トラックバック(0)  |  コメント(0)
 | HOME | 
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。