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2009.11.24 (Tue)

そうだ、新宿へ行こう。

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仕事帰りに、(帰宅途中でもあるので)新宿に寄ったら、花園神社で「酉の市」をやっていました。
それでなくても、花園神社の境内は狭いのに、ひとが多すぎて、なかなか前にすすみめません(>_<)。
しかし、世界の大都である新宿で、このようなお祭りが普通に行われるというのは、やはりいい光景だと思います。近代化や経済の発展だけでなく、こういうような習俗文化がしっかりと根付いている、継承されていっているというのも、日本の歴史や文化の重みなんだと思います。
だって、ビルが林立する中に、いきなりこういう風景が出てくるのですからね。日本人のぼくでも、不思議です(笑)。

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花園神社の酉の市は、明治時代に始まったと言われます。酉の市は、日本武尊が東夷征伐の戦勝祈願をし帰還の時にお礼参りをしたことから、日本武尊の命日である11月の酉の日に行われるようになりました。この武神の御神徳にあやかろうと、新羅三郎義光や徳川家康なども信仰し、武家の信仰対象として発展していきましたが、江戸時代に入ると、商売繁盛の行事としてこの酉の市は拡大発展していきます。
いまでは、浅草や調布などで有名なこの酉の市ですが、この花園神社の酉の市も毎年60万人は集まるといわれる大きなお祭りです。酉の市の名物である熊手がなぜ有名になったかというと、日本武尊が祈願の際に社前の松に立てかけたから、信仰の対象になったという話がありますが、神道や仏教など様々な立場で所縁などはちがうようです。
でも、そういう信仰というのは時代の発展ととも変形していくもので、ぼくはその変形の先にこそ、日本人が抱く精神性が現れると思うのです。それは、「変えられた」という否定的な見方ではなく、「変える」ことによって、日本人が受け入れ、自分達の精神性を表現していったそのものだと思うので。
たとえば、熊手が大変人気になる理由に、熊手であれば福を「かき込む」ことができる、というほうがとても自然な感じがしませんか?言葉とはぼくらが気づいていない「魂」ですから。

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さて、ここで熊手の粋な買い方をひとつ紹介。
熊手を販売する店主と料金の交渉をしてください。大阪人ぐらいしかこういうのは今はしないかなぁ、と思うのですが(失礼www)、値引きする・しないのを「買った(勝った)」「まけた(負けた)」という言葉遊びがここには存在します。しかし、だからとって、この値段で買ってはいけません。値引き分は、店主に寄付をする、これが信仰のひとつの形になります。江戸人らしい粋な買い方だと思いませんか?ほほえましいくらいです(笑)。じゃあ、最初から素直に買えよ、って言われれば、身も蓋もないのでね(笑)。

@だいすけ。
「そうそう、今日が本祭ですよ☆」
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2009.11.23 (Mon)

「乱世はまだ続くぞ。そして、俺たちは、誰と較べても若いのだ」 孫策は大声を出して従者を呼び、新しい酒を命じた。

繁栄を極めたかつての都は、焦土と化した。長安に遷都した董卓の暴虐は一層激しさを増していく。主の横暴をよそに、病に伏せる妻に痛心する呂布。その機に乗じ、政事への野望を目論む王允は、董卓の信頼厚い呂布と妻に姦計をめぐらす。一方、百万の青州黄巾軍に僅か三万の兵で挑む曹操。父・孫堅の遺志を胸に秘め、覇業を目指す孫策。そして、関羽、張飛とともに予州で機を伺う劉備。秋の風が波瀾を起こす、北方“三国志”第二巻。



北方三国志の2巻目を読了しました。
北方世界は、熱い、熱すぎます!!
まさに「漢」の世界。ウザいくらいに、アツいです(笑)。

文章のひとつひとつがそんな青春世界ですが、今回の内容で、気になった下りは以下のところです。

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陶謙の首を取れる。
父に対して曹操ができるのは、それだけだった。
複雑な父子だった、と言っていいだろう。宦官の養子になった男。少年のころから、曹操は父をそう見ていた。そのために、自分は宦官の家系を継ぐ者として生まれた。
袁紹のような名門に生まれていたら。よくそう思ったものだ。
しかし、ある時まで、父は曹操に厳しかった。男の心のありようも、父に教えられた。宦官の家系ということを、父は曹操よりも気にしていたのではないか。兵を挙げてからは、父は惜しげもなく家産を傾けて、曹操に援助を送ってきた。宦官であった祖父の代に蓄えられ、養子であった父の代に厖大なものになった家産も、いまではほとんど残ってはいないだろう。家具まで切り売りしながら送ってくる銭は、最後には悲しいほどに少額なものになっていた。
父の援助を、曹操は当然のものとして受け取ってきた。自分は曹家を名誉ある一門にする存在なのだ、と心の底で思っていたからだ。だから、父に礼を言うこともなかった。
父を失ったという喪失感の大きさは、そういう理由から来るのだろうか。怒りの激しさは自分でも戸惑うほどで、それはいまになっても消えない。
そんなことを考えながら、夜明けを迎えた。
---------------------------------------------

曹操の父が徐州牧である陶謙の部下に殺され、父の仇をとるために、陶謙討伐に出る前の曹操の心の様を描いたシーンです。曹操は実際に徐州に入り、歴史の汚名となる大虐殺を行うのですが、この時の虐殺の理由をそれこそ多くの古今東西の作家が描いています。北方三国志での解釈はこのようなものでした。

悪名をものともしない曹操の豪胆さは常に天下への志にあったのですから、この虐殺もまた天下人への路を築き上げていくものになっていくのですが、それよりも親子の情というもの、彼がなす天下への志の意味を父に理解して欲しかったという甘えの精神構造が曹操にも存在していた、というところに、読者が共感できる覇者の姿があると思うのです。

その後の歴史をみても、曹操は決して家族運に恵まれた英雄ではありません。むしろ、悲運が続くといっていいほどです。もちろん、他の英雄もそうですので、この時代の特性だともいえますが。
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2009.11.21 (Sat)

「これほどまでして、ローマ帝国は生き延びねばならなかったのであろうか」。それは中世のはじまりの姿だった―。

塩野七生の「ローマ人の物語(37) 最後の努力(下)」を読み終わりました。
やはり、女流作家の醍醐味というのは、男性の小説家では描くことがなかなか難しい心理描写がとてもうまい、ということだと思います。

「ローマ人の物語」もとうとう佳境に達してきました。
強大化した、広大化した、ローマ帝国統治の再編成のために「四頭政」が考えられたわけですが、それが帝国内の権力闘争を激化させ、また帝国にとって最も重要な防衛体制が崩壊・変質しはじめるきっかけになります。

「四頭政」の再編成は、ローマ帝国本来のたったひとりの集中的な権力者の体制にもどるわけですが、それは独裁君主制へと変質させ、「ローマがローマでなくなる」はじまりとなっていきます。そして、同時に起こるキリスト教の台頭。キリスト教の台頭が、ローマ社会の社会秩序概念を変えていく。すべてが変化のはじまりでした。まるで、ローマ帝国は断末魔を叫ぶように、社会改革を行っていく。歴史学者はその有様を「これほどまでして、ローマ帝国は生き延びねばならなかったのであろうか」と表現しました。ローマが滅びていくのです---。

ローマを学ぶことは、現代社会の混迷をどのように解決していくのかを考えることと同じなのです。
ローマとは「世界」であったのですから。



気になったセリフは、以下のふたつ。

◆防衛をどう考えるかは、住民共同体としての国家をどう考えるかと、結局は同じことになる。なぜなら防衛とは、個人の努力では限界があるのを国家が代わって責任をもつ事柄の第一であるからだ。ローマ人は帝政時代でさえも、共同体を意味する「レス・プブリカ」(res publica)という概念を好んだ。帝国全体が一つの大きな家であり、そこに住む人々は皆、ローマ帝国という大きな「ファミリア」(familia)の一員なのであると。私はそれに運命共同体の文字をあてたが、ローマ人の言語であるラテン語にはそれはない。彼らはただ単に、「ファミリア」と呼んでいたのだった(41pより)。

◆指導者ないし支配者とは、指導する人々や支配下にある人々の欲求、ないしは需要、を汲み上げてそれを現実化するのが任務であると思いこんでいる人は多い。だがそれは、民主主義を、深くも考えずに鵜呑みにしているからであって、それよえにこの種の「任務」は、凡百の政治家のモットーになっているのである。もちろんこれも、彼らの任務ではある。だが、任務の一部ではあってもすべてではない。需要には、すでに存在する需要もあるが、喚起してこそ生まれてくる需要もあるからである(117pより)。

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2009.11.21 (Sat)

そうだ、浅草へ行こう。 4

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仲見世通りのこの華やかさ。

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伝法院通りのこの怪しさ。

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雷門前のこの騒々しさ。

すべてが浅草!!

@だいすけ。
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2009.11.21 (Sat)

そうだ、浅草へ行こう。 3

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浅草寺を弁天堂の所から入っていくと、宝蔵門辺りに出てくるとことができます。
ふだん、雷門→仲見世通りという道しか歩かないものですから、隅田川の方向から横に入ってくるのは初めてです。
浅草寺の横は、ラブホテル街だったことをはじめて知りました(笑)。

弁天堂の横には、鬼子母神や仏像などが安置されています。
写真は、観音・勢至二菩薩の金銅坐像を後姿から撮ったものです。この「二尊仏」は、一般に「濡れ仏」という名で知られています。蓮台も含めて4.5メートルもの高さがあり、江戸初期の仏像だそうです。
結構何回か浅草には来ていましたが、この仏像などが安置されていることには気づきませんでした。
街歩きは、本当に「再発見」の連続ですね。

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お寺というものは、やはりライトアップが似合いますね。
とくに、この朱色系統のデザインをされているお寺は、闇夜の暗さと人が創りだす光の強さの微妙な調和は、なぜこれほど人を惑わすのでしょうか。

まるで、小野不由美さんの「東亰異聞」の世界ですね。
彼女の作品に、このような台詞の掛け合いがあります。

「いつも不思議に思うのだよ。正しいのは昼なのか、夜なのか。それとも、どちらも正しくて、昼と夜と繰り返していくのが正しいのか」
「そのようなもの問うてどうなさる」
「昼と夜、光と闇が繰り返すのが正しいのなら、人の心もそのようなものであってもおかしくないとは思わないかい?なのに人の心に闇が落ちるのを誰も誉めはしない。人は昼でいるのが、それだけが正しいと言わんばかりだ」
「悋気ならありますわいなぁ」
「そんなものは人の心に落ちた黄昏にすぎない。闇とはもっと暗く、そして穏やかなものだ。ああ、ひょっとしたら、誰も光が何なのか知らないのかもしれないね。誰もが昼だと思っていたら、実はそれが夜なのかもしれない。瓦斯灯で照らされた通りを昼と勘違いするように」
「・・・夜語りならば、もっと他に話もあろうに。お前さまは理屈ばかりを言わっしゃるかぇ。お前さまはほんにわからぬ」
「もし闇に染まった人間がいたら、会ってみたいと思わないかい?その者はやはり鬼のように見えるだろうか。ひょっとしたら、菩薩のように見えはしないか」
「女ならばいっそう良いかぇ」
「女ならお前の姉妹に、男ならお前に添わせてやろうか」
「どちらも欲しゅうないわいな」
「その格好で悋気を見せるものじゃないよ」
「ただね、どうしようもなく闇に惹かれるのだよ。人の心の闇にねぇ・・・」

浅草とは、そういう世界にみえるのです。
近代化の歪みのすべてが美しくも醜くもみえるそんな街のような気がするのです。

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浄土真宗本願寺派の我が家のなかにあって、神道まっしぐらなぼく(!?)は、もちろん浅草神社へと参拝をいたしました。いや、本来、日本の歴史は神仏習合そのものであり、無理な明治以降の宗教政策が日本本来の宗教のあり方を歪ませてしまったと思うのです、個人的には。

さてさて、この浅草神社のHPはとってもおもしろいのです。
まず、巫女さんのブログ「巫女の独り言」というものが面白い。なんか、「ほっ」ととするんですよ、「ほっ」と。そんな文章のブログだなぁ、と感心してしまいました。ブログはこちら

あと一点面白いのが、この神社の由来を紹介するページです。そこには、こう書いているのです。

「これによると創建は今を去る千三百五十年程の昔ということになりますが、これは少々無理のようで、平安の末期から鎌倉にかけて権現思想が流行しだした以後、三氏の末裔が崇祖のあまり浅草発展の功労に寄与した郷土神として祀ったものであろうと推定されます。奇しくも明治維新の神仏分離令により浅草寺との袂を分かち、明治元年に三社明神社と改められ、同6年に現在の名称に至ります。」

神道のあり方って、こうあるべきものだよなぁ、と感心する文章と感じませんか?

たとえば、教育勅語の頭部分を覚えておられますか?
「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニヲ樹ツルコト深厚ナリ」
という部分です。
これは現代的にいうと、
「私の思い起こすことには、我が皇室の先祖たちが国をお始めになったのは遥か遠い昔のことで、そこにお築きになった徳は深いものでした」
というものになると思うのですが、これは率直にいうと一部の方には「いい加減」「非科学的」「非合理的」といわれるところかもしれませんが、「国がいつはじまったのなんてよく分からないし、知らないよ。ぼくたちが分からないぐらい、ずっと昔のことさ。でも、よくぼくたちには分からないところに、先祖達が歩んできた歴史や重みがあるんだよねぇ。そのよく分からないのを大事にしてきたいのさ」なんていう考え方こそが、神道であり(政治学的にいうと諸神混在主義というやつです)日本文化の大切なところだと思うのです。

宗教というのは、明確な経典・教祖・教義・起点があらねばならぬ、またそのように見せるものと思われるかもしれませんが、そういうような見栄が一切ないところに、この神社のHPのすごさをみた気がします。(え、言いすぎ?笑)

いや、本当に感心しているのです(笑)。
HPはこちら


@だいすけ。
「ぼくは日本文化は『樹の歴史』だと思ってているんです。根(歴史)をはり、葉(国民)を茂らせ、幹(皇統)が太くなっていく。そう考えれば、明治陛下の教育勅語の表現の仕方というのは、とても日本的なものを示しているのだと思うのです。十二の徳目ばかりに注目するのでなく、そのはじめと結びの表現こそ重要だと思うのです。どこの世界に、君主自らが、国民に向かって、『私自身もそのような徳をつめるように、国民皆と共に歩んでいきたい。ただそれを希います』なんていう国がありますか?このすごさ、君民一体の自然性こそが、日本が世界に誇るべきものだと思うんです」
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2009.11.14 (Sat)

そうだ、浅草へ行こう。 2

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今戸神社から隅田川を南に下る感じで、徒歩5分程度のところに待乳山聖天というお寺があります。
この聖天とは、十一面観音菩薩を本地仏とする大聖歓喜天を指します。
お寺の正式名称は、本龍院といいます。浅草寺の子院になります。
公園に併設され、とても趣のあるお寺となっています。毘沙門天と龍が守護仏・守護神だと言われているのですが、そんな気もする空気感です。
夕暮れ頃のお寺の景色、ひとりで散歩しているのも変な男かもしれませんが(笑)

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お寺の入り口階段の近くに、歴史小説家・池波正太郎氏の碑が建っています。
1923年、彼はこのお寺のそばで生まれました。彼の小説には、このお寺がたくさん出てくるので、池波ファンはすでに知っているお寺だと思います。

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浅草寺へ向かう途中、花川戸公園という公園がありますが、この公園のなかに姥ヶ池という池があります。この姥ヶ池には碑が建っていますが、これはある老女を祀っている碑になります。昔、浅茅ヶ原の地にて、一軒屋を構え、娘が連れ込む旅人の頭を石枕で叩き殺す老婆がいました。ある夜、娘が旅人の身代わりになって、天井から吊した大石の下敷きになって死ぬのですが、それを悲しんで悪行を悔やみ、老婆は池に身を投げて果てたのでした。里人はこれを姥ヶ池と呼んだそうなのですが、この逸話が後世まで続き、いま公園のなかに碑が残っているということです。

さぁ、目の前はもう浅草寺です!


@だいすけ。
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2009.11.14 (Sat)

そうだ、浅草へ行こう。 1

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浅草に行ってきました。
まずは行ってみたい神社だった今戸神社に行ってきました。
浅草駅を降りてから、北に歩くこと20分ほど行ったところです。
スポーツセンターの前にあります。

実はこの神社、最近恋愛成就の神社として、とても人気のある神社なんですね。
姉妹の神職がおられる場所として有名になった場所ですが、(宮司の娘さんたちみたいです)昨今の婚活ブームにのり、いまや女性に大人気の神社なのです。
神社として招き猫発祥の神社ということもあり、また神社が主体となって「縁結び会」という活動を平成20年からされはじめたことがきっかけになって注目されています。

女性ばかりの神社って・・・参拝するのがちょっと恥ずかしい(笑)。

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しかし、この神社、歴史好きにはとっても興味深い場所でもあります。
なんとあの幕末のヒーロー、沖田総司の終焉の土地でもあるのです。新撰組の隊士であった永倉新八の「同志連名記」によると、幕府崩壊後、沖田総司の肺は病を抱え、隊から離れ江戸に後退し、和泉橋の松本良順の医学所で治療を受けていましたが、薩長軍の江戸入りに際して、浅草今戸八幡に収容されました。そして息を引き取るのですが、その跡地として、今戸神社の境内にはそれを記念して碑が建てられたということです。

次は浅草寺に引き返します。


@だいすけ。
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2009.11.14 (Sat)

そうだ、靖国神社へ行こう。

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11月の土曜散歩は、靖國神社へ行ってきました。
修学院・修学会・学習院女子大学生などの集まりで、行ってきました。

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まずは、参集殿の控室にてお茶をいただきながら、昇殿参拝をする時間を待ちます。
15時から御饌(神さまにお食事をお供えする儀式)の神事に参加させていただきました。

さすがに、本殿内の写真は撮れませんが、大変厳粛な雰囲気で、未だ昇殿されたことのない方は一度経験されてみてもよいと思います。

靖国神社には、計246万6532柱(2004年10月17日現在)が祀られています。当初は祭神は「忠霊」・「忠魂」と称されていましたが、日露戦争後に新たに「英霊」と称されるようになりました。これは藤田東湖の漢詩「文天祥の正気の歌に和す」にある「英霊いまだかつて泯(ほろ)びず、とこしえに天地の間にあり」という句が志士に愛唱されていたことに由来する、と言われています。

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参拝終了後、靖国神社の大山晋吾権禰宜(遊就館部展示課長)に遊就館をご案内していただきました。遊就館は何度も入っていますが、専門家の方に一点一点しっかりと説明していただくのははじめてで、大山さんの説明がとっても丁寧だったこともあり、ぼくなどは特攻隊の方のご説明などでは泣いてしまいそうになりました。なかなかできない経験をさせてもらいました。

この企画は毎年恒例のものにしていきたいと考えております。

@だいすけ。
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2009.11.09 (Mon)

兵どもが夢の跡… 【早稲田祭】

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ぼくも学部生だったころは、早稲田祭にライブ企画を出していました。実行委員会も、企画をだしたヒトも、お疲れさまでした。また来年が楽しみです☆

@だいすけ。
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2009.11.06 (Fri)

そうだ、目黒へ行こう。 7

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またこの本堂が立派なんです。
昭和56年(1981年)再建の鉄筋コンクリート造建築なんだそうですが、なんでしょうね、この宗教建築というのか、日本の伝統建築というのは、「旧さ」という時代感覚を常に感じさせてくれるのは、日本人としてのDNAなのでしょうか?

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しかし、感動はこれだけではありません。
本堂の裏にまわると、露座になっている大日如来像があるのです。

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これがまぁ立派な仏像で、とてもきれいなお顔をしています。
すばらしいですよ、仏像ってやっぱり人間の生き方、彫っている人の魂、とかそういうものが出ると思うのですが、すごいパワーをもっているな、と感じます。この奥に土地神様のお社があったりしたので参拝したのですが、なんでしょうか?この本堂の裏の空気の一体感というのは、とても気持ちいいものでした。もし近くに住んでいたら、ぶらっと訪れて、リラックスするために一日ぼーっとしておきたいなぁ、と思った場所です。あるんですよ、そういうスポットって、きっと。日本人の感覚に埋め込まれたなにかの記憶なんでしょうけれど☆

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この目黒不動尊にも、沢山の碑があります。青木昆陽の碑だったり、北一輝の碑だったり、本居長世の碑だったり。実際にぼくたちが再発見していないだけで、全国どの町にもすばらしい歴史が豊かに眠っていると思うのですが、江戸・東京や、そしてこの目黒というのは、本当に歴史豊かな街ですね。写真は、作曲家の本居長世の碑です。本居長世は童謡を初めて作曲した音楽家で、碑に彫られた「十五夜お月さん(野口雨情作詞)」は大正9年(1920)11月27日に発表された日本で最初の童謡なのだそうです。童謡っていうジャンルは、音楽史のなかでも極めて特殊なもので、むしろ本居長世が世界ではじめて確立したといわれるほどの功績なんだそうです。ピアノを習っていた自分なのに、お恥ずかしいことながら、まったく知りませんでした(>_<)。
彼が創った『七つの子』『青い眼の人形』 『赤い靴』『汽車ポッポ』なんていうのは、戦後世代というか、平成に近い昭和世代のぼくでさえ知っているのですから、どんだけすごい人なんだと驚きます。

世の中はすばらしい人ばかりですね。
こういう刺激をもらうのも、土曜散歩企画の醍醐味です。
ぜひ、読者の方もいっしょにぼく達と街を歩きませんか?

今回の目黒編はこで終わりです☆

帰りは、林試の森公園を通り抜け、武蔵小山駅に出て、武蔵小山駅商店街にて恒例の懇親会をしました☆
っていうか、商店街がでけぇぇぇええええ!!!
日本一のアーケード街なんだそうです。いやぁ、本当に何度も言いますが、まだまだ知らないことが世の中には多くあります。これらの発見や知ることも、人生の大きな教養のひとつですね、きっと。


@だいすけ。
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2009.11.06 (Fri)

そうだ、目黒へ行こう。 6

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今回の目黒編の最大目的地はこの、目黒不動尊でした。
目黒駅から、1.5kmというところでしょうか。
目黒不動尊は正式名を泰叡山瀧泉寺といいます。
さきほど歩いてきた蛸薬師の開祖である円仁によって創建されたお寺です。
創建されたのは、大同3(808)年といいますから、平城天皇の御世です。いまから、1200年も前に建てられたお寺なんて聞くと、昔の人間は立派だったんだなぁ、と素直に感心してしまいます。

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ちなみに、目黒という地名は、このお寺に由来します。
というのも、このお寺は途中火災にあって消失するのですが、徳川家光が再建をします。その時に、徳川家光が天海僧正に命じて、5箇所の不動尊を選び、天下太平を祈願したことに由来する、とも言われますが・・・まぁ、これは伝説みたいです。目黒、目白、目赤、目青、目黄は、密教との関連から結び付けられたりしますが、天海そのものが謎だらけの人物ではあるので、伝説は伝説として信じてもよいのかもしれません☆

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本堂まで長い階段をのぼらなければなりませんが、この脇に「独鈷の滝」というものがあります。この「独鈷の滝」というのは、Wikipediaで調べたりしてみると、「本堂へと登る石段下の左手に池があり、2体の龍の口から水が吐き出されている。伝承では、慈覚大師円仁が寺地を定めようとして独鈷(とっこ、古代インドの武器に由来する仏具の一種)を投げたところ、その落下した地から霊泉が涌き出し、今日まで枯れることはないという。」と書かれていました。諸願成就の縁を結び大願が円成するよう身代わりとなって、水を浴びて下さる「水かけ不動明王」もこの滝(泉?)の前にあるのですが、仏像ってこういう「身代わり」系、多いですよね。なんで?

それにしても、東京って円仁が開いたお寺がおおくないですか?
円仁、どんだけスゴイ人なんだよ、と改めて突っ込まざるを得ない功績の数々。
きっと円仁が建てたといわれる場所を全部めぐれば、運気が一気に花ひらくこと間違いなしです(笑)。


@だいすけ。
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2009.11.06 (Fri)

そうだ、目黒へ行こう。 5

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街歩きは常に驚きと発見の連続です。
本当に。
だから、ある程度しか計画していなくて、実際に歩きながら迷うのも結構。それが街歩きだ、ともう言い聞かせているのですが、今回の目黒編はすさまじいくらいの体験の連続です。

目黒はやばいです。
日本一、怪しい一体かもしれない(笑)。
霊能力とかそんなものがあるわけではないけれど、この目黒の宗教的な怪しさは一体なんなのだと思ってしまいます。

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蛸薬師の隣に、安養院というチベット仏教のお寺があります。
もう狛だけで、日本の仏教とは違うな、と感じます。
いや~、おもしろい。
日本でもチベット仏教というのは珍しいと思うのですが、実際にこういうものをみると、「果たしてここは日本なのか?」という不思議な感覚になりますね。
そして、このお寺の奥には、本堂の地下を利用したチベット仏教専門の美術館があのです。正式名称は、北インド・チベット仏教美術館:サマヤシュヴァルナムというそうです。チベットにある仏教美術というのは、そのすばらしい作品のほとんどは欧米や中国などに持っていかれているのでしょうが、こんなところでチベット美術をみれるとは思いもしませんでした。
このお寺の存在や、美術館の存在を知っている人は少ないのではないでしょうか?

目黒ってなんでこんなにあやしい空間なんでしょうか(笑)?


@だいすけ。
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2009.11.06 (Fri)

そうだ、目黒へ行こう。 4

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五百羅漢寺から目黒不動尊へ近道を通らずに、まっすぐに南に下ると、成就院というお寺があります。このお寺は、「蛸薬師」とも言われるお寺です。なぜ、蛸薬師とよばれるかというと、本尊の薬師如来が3匹の蛸に支えられた蓮華座に乗っていることから、そう呼ばれたそうです。では、なぜ蛸が乗っているかというと、開祖である慈覚大師円仁(最澄の高弟)が40歳のとき、みずから薬師の像を刻み、修行のため入唐した時からこの像を持ち歩いていましたが、帰国の海路の途上、船が転覆しそうになり、この仏像を海神に献じて危機を逃れたそうです。後、円仁が諸国巡礼をしている時にその海に投げ捨てたはずの仏像を肥前の松浦の海辺で発見したそうです。それも、その仏像に蛸たちが乗って浮かんでいた、とのことです。。。

う~ん・・・不思議ですねぇ。。。

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看板には、こんなに可愛い蛸が描かれています。
ちなみに、この写真にうつっているお地蔵は「お静地蔵」と呼ばれ、徳川秀忠の寵愛を受けたお静が、我が子である保科正之の出生・成長・出世という大願成就の御礼に奉納したものなんだそうです。

大願が叶うお寺。境内に一歩でも入れば、そのご利益があるそうです。
ぼくには、お願いしたいことが沢山です(笑)。
(欲ばかりでは仏道に反していますよねwww)


@だいすけ。
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2009.11.06 (Fri)

そうだ、目黒へ行こう。 3

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五百羅漢寺に行きました。
お寺に入るのに、入場料が300円とられます。

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しかし!しかし!しかし!!
この五百羅漢寺、ぜひ行って欲しいと思います。
300体もの羅漢像があるのですが、これは写真撮影禁止だったので、ここではご紹介できないのですが、本当に感動します。一体ずつまったく表情が異なり、そしてこの羅漢像にはそれぞれ人間の生きる道が表現されているのです。仏道とは一体なんであるのか。難しいことはよく分かりませんが、感覚として宗教とはなんなのか、教えとはなんなのか、人が生きるとはなんなのかを、感じることができます。
ぜひ、お時間ある方、目黒にちょっと寄ってもいいかな、という方、本当におすすめです。
個人的には、この一年間で行ったどの場所よりも、色んな多くのことを学ばせてもらったきがします。

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境内のなかには、「碑のこみち」とよばれる場所があるのですが、桜隊原爆殉難碑や庖魂の碑、興安友愛の碑、高浜虚子句碑など様々。歴史好きにはたまらない碑の数々です。

このお寺、すさまじいほどスゴいです!!


@だいすけ。
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2009.11.06 (Fri)

そうだ、目黒へ行こう。 2

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五百羅漢寺へと向かう途中に、海福寺に寄り道しました。
小さなお寺なのですが、朱塗りの四脚門がとても落ち着いていて、また門までの道はふつうの一般家庭に囲まれている、素朴な日本の下町を示すような風景をかもしだしています。

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本堂脇にある梵鐘は東京都の指定文化財なのですが、それよりもビックリするのが、九層の石塔です。この石塔、なんとあの武田信玄公の館にあったものだそうです。武田信玄公を尊敬するボクとしては、ムチャクチャ感動するものでした。ひとりで感動して、はしゃいでいました(笑)。目黒区の指定文化財だそうです。

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お寺の手前に、供養塔があります。
この供養塔は文化四年(1807年)の永代橋崩落事故で亡くなった人の供養塔なのです。

街歩きという企画をしていて本当によかったな、と思うのは、こういう歴史の教科書では教えてもらえない郷土史というものを知ることができることです。福岡出身のぼくが、江戸・東京の歴史を知ることなんてそんなにないと思うんです。永代橋の崩落事件というものがあったなんて知りませんよね、普通は。

この永代橋の崩落は、八幡宮の祭日に起こったもので、橋を渡っていたヒトが440名も溺死してしまったそうです。海福寺も深川にあったのですが、明治43年(1910)に水害にあい、これを機に現在の目黒へと供養塔といっしょに現在の地に移転してきたそうです。

江戸・東京の町が橋の町であったということは、江戸・東京という町は水脈の都であったということです。いまでいえば、ヴェネツィアみたいな町だったのでしょう。そして、そういう崩落事件をみても、人の往来が激しかった様子を想像できたり、公共工事とはどうあるべきなのかを考えさせてくれます。

そういう意味で、今回、供養塔をみることができてよかったと思います。
自分で言うのも変ですが、企画自体は決して間違っていないものだと再認識いたしました。


@だいすけ。
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2009.11.06 (Fri)

台湾美術展に招待いただきました

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台湾大使館よりご招待をいただきましたので、大崎のO美術館での台湾美術展のオープニング式典に伺わせていただきました。

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記念撮影に一枚☆

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オープニングの式典には、こんなにたくさんのヒトたちが来ていました。
最初は会場の場所が分からずに、随分悩み、ちょっと冷や汗ものでした。

このイベント内容を紹介するのに、会場でいただいた展示会の企画本に書かれていた大使の御挨拶文がとても簡潔に、そして丁寧に企画の意図を説明してあると思いましたので、ご紹介させていただきたいと思います。

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わが国政府は、台湾と長い交流の歴史をもつ日本との友好関係をさらに深めていくために、2009年を「台日特別パートナー関係促進年」と定めました。この記念すべき年にあたり、このたび台北駐日経済文化代表処(大使館)は、国立台湾芸術大学との共催により、品川のO美術館で「第4回台湾美術-現代の旗手5人展」を開催する運びとなりました。

今日、世界の情勢はグローバル化が加速し、国際社会は地球環境問題や安全保障問題など、世界共通のさまざまな課題に国境を超えて取り組む時代を迎えております。社会は激変し、多様な価値観が生まれる今日にあって、台湾と日本の相互理解を図るために芸術を通して文化交流が促進されますことは、誠に意義深いことであると思います。

台湾の現代美術は、中華文化に深く根ざしながら、日本をはじめ欧米諸国の絵画芸術を吸収し発展を遂げてまいりました。その歴程は、試行錯誤を繰り返しながら様々な挑戦に果敢に挑み、独自性の主張へと向かう軌跡であったと申せましょう。

(中略)

文化は民族の生活経験の累積であり、芸術は文化の精華を示すものであります。亜熱帯風土のなかで形成された台湾の絵画芸術を通して、日本の皆様が東アジアに位置する台湾の歴史と文化に触れる好機となるよう心より願っております。

(以下略)

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台湾と日本の深いつながりを示し、芸術という文化の本質を示した文章としてとてもきれいなものだと思います。今回は4回目、来年は5回目になりますね。台湾と日本の双方の官民が交流を深めていき、両国の発展につながるように願ってやみません。

とてもよい企画でした。
携わった方々、お疲れ様でしたm(_ _)m。

@だいすけ。
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