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2009.04.19 (Sun)

そうだ、上野へ行こう 1

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少しまえ、スタッフといっしょに上野公園へ花見に行きました☆

でも、本当はぼくは花見の時期の上野公園はあまり好きではないんです。
桜が一番大好きなぼくにとって、花見は一年の中でもっとも外せないイベントです。
毎年、桜を見に、北の丸公園、靖国神社、小金井公園、砧公園などに行きます。
かなり多くの公園を回ります。
しかし、それでも上野公園には行きたくないのです。
(実は昔の彼女を思い出すから上野は好きじゃないんだろ、と仲間たちからは突っ込まれておりますがwww)

上野公園の花見のなにが嫌いか?
それは、ずばり花見客の態度です。
ぼくは上野公園で花見をするヒトの一部に、とても花見をする日本人としての資格がないヒトがいると思っています。

ただ宴会に明け暮れ、酔いに任せて、桜の枝を折っているヒトなどいませんか?
ぼくはこの桜の枝を折る、という行為がどうしても日本人のひとりとして許せないのです。
宴会をすること、桜の下で酒を飲むことを批判しているのではありません。
むしろ、そういう風に古来から楽しむものだと思っています。
しかし、桜を愛でなければならないはずなのに、桜を傷つけるような飲み方しかしないヒトが絶えません。

日本の桜の多くはソメイヨシノです。
この樹は寿命が60~80年ほどしかありません。
それも、大部分が昭和天皇陛下の即位を記念したものと、戦後に植えられたものばかりです。
ということは、戦後60年たつ現代は、もうすぐ桜が死んでしまう時期でもあるといわれているのです。
もちろん、新しく植樹などもはじめていると思いますが、この時期であるからこそ、なおさら桜を大切に扱わなくてはならないのではないでしょうか?

やはり、今年、上野公園の花見に行っても、上野公園には行きたくなくなりました。
上野公園には、現代日本人のおぞましい姿しか見えない、とぼくと思うのです。
みなさんは、どう思いますか?


毎年、読んで欲しいと思っているぼくのエッセイ(3年前に書いたもの)を載せます。
愚作ですが、ご笑読ください。



市長殿
花あわれ せめては あと二旬
ついの開花をゆるし給え

あるひとりのサラリーマンが、通勤の途中で一本の桜の樹が道路拡張工事のために伐採されているのを発見した。あと少しで花開く季節だった。

美しく咲くであろう桜が「公共政策」という名において、無残に切り倒されていく。花を愛するひとりとしてその光景をもうこれ以上見たくはない、そんな気持ちで歌を短冊に詠んで書き、誰にも気づかれないように、残る桜の樹々に吊るした。自分ひとりで公共事業をどうにかすることはできないが、せめてこの気持ちだけは市政のトップに伝えたい。彼たったひとりでの最大限のアピールだった。

幸運なことに、この短冊に気づいた地元新聞社の記者が、すぐ記事として取り上げた。たちまち同じように、花を愛する他の市民たちも短冊に歌を詠み、樹々に吊るしていった。しかし、工事が止まる向きは全くない。そんな時、数増えていく短冊の中にひとつだけ最初のサラリーマンが読んだ歌に対して返歌したものが、誰にも気付かれないうちに吊るされていた。

桜花惜しむ 大和心のうるわしさ
とわに匂わん 花の心は

詠み人は「香瑞麻」。
当時の市長の雅号であった。サラリーマンの桜を愛する気持ちが、同じ日本人として痛いほどによく分かる市長であったが、既に計画決定された事業を簡単に取り消すことはできない。その謝意と苦しさを込めた歌であった。だが、市長と市職員は最後まであきらめずに計画見直しに向けて密かに動いていた。何があっても公務の期限と予算の範囲はしっかりと遵守するべきものである、と今まで認識していた市職員たちも、花を愛する気持ちでは市民たちと同じであったのである。結果、工事は一部変更となり、該当区域の残りの桜はすべて保存され、整備された。今では市民たちの手によって桜は大切に守られている。誰ともない、ただ花を愛するものたちによって。

当時の市長は進藤一馬氏。二十二年前、未だ「バブル」という時代の中にあった福岡県福岡市のあるバス停近くのちょっとした桜並木で起こった話しである。

桜が花開く季節になる度に、また花開いた桜を見る度に、この話を思い出し、「桜と日本人」という関係に想いをはせる。桜はわが国の民俗学を開拓した折口信夫氏が主張するように、稲作文化の到来の頃から日本人と深く関わってきたことが指摘されており、「古事記」に出てくるサクラという言葉の語源となった木花咲耶姫(このはなさくやひめ)の存在は、その神話の元となった富士山だけでなく、伊勢や浅間、甲府などの各地で祭神として崇められている。事実上の国花として古くから日本人に大変親しまれてきた花であった。現在では、江戸末期にオオシマザクラとエドヒガンザクラを交配して作られた世界最初の人為交雑種である、ソメイヨシノが日本の桜の八割程を占めており、桜の代名詞となっている。葉が出揃う前に花開き、静寂の中で散っていくという美麗性と生命性に日本人は自らの人生観を重ね合わせ、愛でてきたのだろう。

だが、そのように日本人が古くから愛でてきた桜は今や危機に瀕している。正確にいえば、ソメイヨシノが、であるが。ソメイヨシノは、その寿命が六十年から九十年と言われている。そして、現在のソメイヨシノの大半は、昭和天皇の即位を記念して植えられたものと、何もかもが焼け野原になった戦後に植えられたものが主流なのである。つまり、戦後六十年という時代の流れと並行して、現代のソメイヨシノの寿命はいま尽きかけようとしていると言っても過言ではない。追い討ちをかけるように、ソメイヨシノは接木によって苗木が作られてきたため、古くから日本列島に咲いていた他の自然種の桜と比べると、大変弱い樹なのである。ある意味においては、クローンの連続であったと言えるのだろう。

これは、現代日本人と似ていなくもない。姿かたちは、先人たちと同じでありながら、その自分の拠ってたつ思想や精神の強さというものを失いかけている現代日本人はクローン桜とどこかで似ていないだろうか。ソメイヨシノのように、我々現代日本人も滅びの鎮魂歌を口ずさみ始めているのだろうか。先人たちが現代の繁栄を築く上で、手に入れたものは多くあるが、それを継承しただけの我々現代日本人は手にしていないもの、無くしてしまったものがあるのではないだろうか。

 桜を愛し、桜と共に生きていく。それはまぎれもない日本人の姿だ。

桜を守り、桜を残していく。そして、新しい桜を植えていく。それが、我々現代日本人の「花守り」としての役目ではないだろうか。その時、我々現代日本人の心の中にも「旧き新しい桜」を植えることができるのだろうか。少なくとも、桜を愛ずることさえやめてしまえば、我々は日本人ではなくなってしまうはずだ。それは「クニ」を無くしてしまうことと同じことなのだと確信している。

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2009.04.16 (Thu)

そうだ、月島へ行こう 5

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もんじゃ焼きで有名な月島の商店街のなかほどに、「月島警察署 西仲通地域安全センター」というのがあります。これは、写真でもわかるように、以前は交番でした。それも、現役最古の。

一時は取り壊しの話もあったようですが、文化的意義もあり、また防犯拠点としての機能も存続させることから、交番だったものをそのまま安全センターへと移行させたようです。

だとすると、この交番が安全センターになったのなら、現在の『現役最古の交番』ってどこなのでしょう?

ところで、「地域安全センター」ってなんでしょう?
お勉強しましょう。
警視庁のHPに解説がありました。
http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/sikumi/kouban/anzencenter.htm
みなさんのお家の近くには、地域安全センターはありましたか?


商店街周辺を歩いていて、不思議な神社を見つけました。
柏山稲荷神社という神社です。
ふつうのお家に敷設されていた神社です。
この神社はなにを祀っているのでしょうか?
(まぁ、お稲荷さんだと思いますが・・・)
この神社の云われや詳細がとても知りたいです。
情報、求みます(笑)!!

さて、この後、参加者の皆さんともんじゃ焼きを食べにいきました。
やっぱり、懇親会は必要ですよね。
この懇親会が楽しみになりつつある4月の東京土曜さんぽでした☆


次回はどこに行きましょうか?
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2009.04.15 (Wed)

そうだ、月島へ行こう 4

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まさに押井守的世界。
といったって、それが日本の風景なんでしょうが。

しかし、見渡せば見渡すほど、このデュエル・シティはすさまじいですね。
日本の未来の姿というのは、次第にこうなっていくんでしょうね。。。
1枚目、2枚目の写真は、佃小橋です。
住吉神社の裏にあります。

3枚目の写真は、同じ佃小橋から反対の月島側をみた光景です。
佃公園と船溜りなのですが、遊歩道としてしっかり整備されていて、静かに桜の花見をするのに、かなりの良環境である隠れポイントではないでしょうか?
オススメなスポットです。

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2009.04.14 (Tue)

そうだ、月島へ行こう 3

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建築のことはよく分かりませんが、この佃大橋というのは、とてつもない技術力で建設されたことがうかがえる代物らしいのです。色々ネットで検索して、その技術力の高さは十分にわかったのですが、これをどうやって簡単に読者の方に説明しようかと悩んでいたら、やはりそこはwikipediaでした。
賛否両論あるかもしれませんが、非常に説明が簡単です。

本橋は個性的なデザインの多い隅田川橋梁群の中で、一見無個性で無粋な橋といわれがちであるが、大ブロック工法など、当時の技術の粋を凝らし、オリンピックに間に合わせるために急ピッチな架橋など、むしろ戦後に急速な復興を遂げた高度成長期の日本を象徴した橋といえる。

(以上、佃大橋の説明より)

戦災にあわなかった月島・佃・築地のこの地域を結ぶ佃大橋は、戦後復興の象徴。
これほど、この企画に合致している景色もないと思います。
戦中の遺産が残りながら、隅田川を眺めれば、その景色はどんどん近代化している。
まさに日本の縮図が、この景色におさまっていました。
しかし、まぁ、東京の富裕層の象徴である大川端リバーシティ21が橋の向こうに見えますが、まるでバビロンにみえるのはぼくだけでしょうか?

そっと目をつぶると、この街がまだ「江戸」という名前だったころの景色も浮かんできます。
この隅田川の上を、何艘もの船が行き交い、水の都として栄えていた「江戸」という町を想像できませんか?街を歩く楽しみ、というのはこういう考えをめぐらせることができることだと思っています。

橋を渡れば、そこはもう佃になります。
もともと、佃嶋というのが町の名前でした。徳川家康が関東下向の際に摂津国佃村から連れてきた漁師33人が、埋め立てて築島し、住み始めたのがこの佃島という町です。この時に、摂津の佃に鎮座する住吉社(現:田蓑神社)の分霊を勧請したのが、この写真の住吉神社になります。
その後、近代化を経ていくなかで、この地域は石川播磨重工の拠点となっていき、現在では、石川播磨の造船所跡地を再開発して、東京に住む政治家や文化人、芸能人、実業家が住み集まる高級高層住宅ビル群になっています。
ぼくが、バビロンじゃないか、という意味がわかるでしょ。

上をみあげれば高層マンション、下を歩けば戦前の景色がそのまま保存されている下町、この東京でもめずらしいデュエル・シティ(異なる二つ以上の階層の人々が混住する街)は、かつてフリッツ・ラグの作品に影響を受け、手塚治虫が描いた『メトロポリス』のようです。


なぜ、フリッツ・ラングと手塚治虫のこのメトロポリスという作品が重要かというと、ある講演でぼくはこのように語らせていただいたことがあります。

本作において、その「都市像」や「社会構造」の捉え方も非常に重要なポイントである。
科学技術の粋を結集して造られた富裕者層が住む地上世界と、スラム化しロボットが歩き回る地下世界は、あきらかに現代社会の都市フォーマルとインフォーマルを描いている。トダロ・モデル(期待賃金によって適格労働力の動向が左右され、経済構造の3部門間の調整によって経済成長が展開される、という開発経済学の1理論)では開発途上国の方がインフォーマル部門(スラム街など)が大きく先進国ほどその規模が小さいと説明されるが、都市化が進んでいる国の方が経済成長率が高いとはいえ、内包しているインフォーマル部門の根源的問題は一層深刻化しているのではないか、ということを本作では訴えているように思えてならない。
またロボットという存在によって生活保障を奪われた人々の存在は、今後の日本の姿を想像できて面白い。高度経済成長を支えてきた産業ロボットなどではなくて、将来本当に人型ロボットと共生する時代が到来して、そのような問題が起きるのかもしれないし、直近で予想されることといえば、あのロボットを外人労働者ともみなせるのではないだろうか。
日本はぺティー・クラークの法則のように産業変化したのではなく、第2次・第3次共に成長し、インフォーマル部門を上手く社会が吸い上げ、労働力の二重構造も比較的世界諸外国と比べれば混乱なく経済成長出来てきた(勿論、横山源之助が「日本の下層社会」(1899)で書いたように、明治期においてはその人口流動からインフォーマル部門が急激に展開されたし、1925~60年の間にも種々の理由で二重構造の拡大が連続化されたのは歴史的事実である)わけであるけれども、構造(規制)改革下で社会変化をもたらしている現在、このような問題設定は大変意義深いように思える。
少なくとも、戦後すぐにこのような問題性を作品の中に取り込んでいた手塚はやはり天才であるのだろう。


少しは、この「都市構造の未来」について、興味をもたれたでしょうか?
こさんぽ企画とは関係ないかもしれませんが、大変おもしろい作品ですので、ぜひ、1度は、ご覧下さい。



ちなみに、住吉神社の話に戻りますが、注意深くみていただきたいのは、その扁額です。
明治天皇陛下が北海道より還幸されるときに有栖川宮幟仁親王が出迎えられた際に、途中で立ち寄られた住吉神社で書かれたものです。
“歴史発見”という意味では、要チェックですよ。
また、神社のなかには、東洲斎写楽の碑もあります。
ここが彼の終焉の地なのだそうです。
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23:04  |  【 こんな処に行ってきました 】  |  トラックバック(0)  |  コメント(2)

2009.04.14 (Tue)

そうだ、月島へ行こう 2

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昔、修学院の勉強会の会場は築地にあったのですが、その時も築地本願寺には立ち寄りませんでした。東京に住んでいたら、東京タワーを見に行かないのと同様に、有名すぎる施設というのはなかなか見に行きませんよね。しかし、せっかく築地に来ているのだから、築地本願寺を見学しよう、と境内に入りました。

築地本願寺といっても、それは通称で、正式な名称は
浄土真宗本願寺派(西本願寺)本願寺築地別院といいます。

境内に入るといっても、おおよそ、お寺らしからぬ(!?)雰囲気です。
詳しい写真や説明は、築地本願寺さんのHPをみて欲しいですが、仏教のシンボルである「蓮の花」が中心にイメージされているからでしょうが、やはり日本的というよりも、ペルシア文化に近かったギリシア、もしくは見方を変えればインド仏教の建築に見えます。

(築地本願寺さんのHPによれば、関東大震災で崩壊した本堂の再建では、東京(帝国)大学工学部教授・伊東忠太博士の設計による古代インド様式で昭和六(一九三一)年に起工、三年後の昭和九(一九三四)年に落成され現在に至っています。と書かれています)

外観がそうかと思えば、中は見事な真宗寺院の造り。
しかし、驚くべきは、その見事なシャンデリアとパイプオルガンではないでしょうか。
これは、一見の価値がある美しさです。
あとで知ったことですが、ご本尊の阿弥陀如来は、聖徳太子の御作だそうです。もっと、注意深くチェックしておくべきだったと反省しています。

この築地本願寺のおもしろいところは、ランチタイムにコンサートをやっていることです。オルガニストを中心に、クラシックの演奏会をやっているようなのです。これは、ぜひ1度聞きにいきたいですね。他にも、色々とお話を聞いてみると、インディーズバンドのライブもやってみたり、となかなかチャレンジ精神の高いお寺です。最近、よく寺院を音楽活動やその他イベントに開放するお寺さんが増えましたが、社会ときちんとコミュニケートしていくそういう姿勢はとっても大事だと思います。でも、よく考えたら、宗教本来の布教のあり方は、そういう係わりあい方が重要だったのかもしれませんね。


築地本願寺を抜けて、聖路加国際病院の方向へ向かいました。
佃大橋を渡る前までの一帯は、ほとんど聖路加グループ(あえて)の敷地と言っていいくらいですが、それもそのはず。もともと、この聖路加国際病院というのは、イギリス国教会長老派の宣教医師ヘンリー・フォールズや聖公会の宣教医師ルドルフ・トイスラー(そのため、デザインはトイスラーの出身地であるボストンのマサチューセッツ総合病院がイメージされている)が創立したものですが、関東大震災後には、皇室の多額の寄付で再建されています。アメリカの赤十字や聖公会の尽力や資本もありましたかせ、うがった見方をすれば、そのために戦中はこの地域は戦災を免れたかもしれませんね。

しかし、そんなことよりも、大変綺麗な建築物です。
また、桜の時期でしたから、大変見事な景観でした。
無機質的にみえる病院というものが多いですが、この聖路加は味わい深い建物ですね。

聖路加病院といえば、やはり日野原重明先生をあげなければならないのではないでしょうか。
過剰投資と批判されつづけながらも、病院施設を拡大していった日野原先生の功績は大きいと思います。とくに、地下鉄サリン事件の時には、聖路加病院は大変な活躍をしてくれました。これも、日野原先生が、東京大空襲の時に国民に対して満足な医療行為ができなかったという悔しい思いがあるからだといわれています。戦争や震災がおきても、しっかりと医療行為ができる拠点病院(野戦病院)をつくらねばならない、という日野原先生の決意には、戦争を知らない世代のひとりとして深く多くのことを考えさせられます。

医療行為とは医者だけではなく、看護士も含めた多くの医療従事者の仕事であるというスタンスもまたぼくは共感できます。98歳というご高齢にもかかわらず、日本のため、命の尊厳のために、働き続けておられる日野原先生には、「敬服」という言葉しか出てきません。ますますのご活躍とご健康を願ってやみません。

ぼくは日野原先生の本を読むと、いつもさだまさしさんの「風にたつライオン」を思い浮かべます。
あれも実話なのですが、本当に世の中には立派な方ばかりですね。


聖路加国際病院を抜けると、とうとう隅田川にかかる佃大橋が見えてきます。

この手前に、志ほせ饅頭で有名な塩瀬総本家さんがあります。
ここに、本店があるとは知りませんでした。

しかし、日本はやはり伝統と歴史のある国ですね。
なにせ、この塩瀬さんは創業から約650年続いているんです。室町時代からず~っとやっている。それも創業当初から「天下第一」の味として、お店をつづけている。これはとてもすごいことです。
でも、とてもすごいことだけれども、そういうお店は、業種を問わず、日本には沢山あります。
これこそが、麻生総理がいわれる「日本の底力」だと思います。


「志ほせ」饅頭、とってもおいしいですよ☆


ある中国人の友人が言っていました。
本当の「中華文明」や「中国文明」などすでに存在しない。そんなものはすべて日本に伝来して、日本が昇華して、継承しつづけている。だから、もし「中華文明」があるとすれば、それは「日本文化」だ、と。
そこまで、自分の国の歴史や文化の断続性を嘆かなくてもいいじゃないか、と聞いていて思いましたが、こういう中国からもともとは伝来して日本で老舗としてのこっているお饅頭屋さんなどをみていると、そういう「継承力」こそが、日本の力なのかな、と思いました。

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20:32  |  【 こんな処に行ってきました 】  |  トラックバック(0)  |  コメント(2)

2009.04.10 (Fri)

そうだ、月島へ行こう 1

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ぼくが企画・主宰している『土曜さんぽ』の4月企画。

今回は銀座→月島へ、歩きました。


今回のルートを設定した理由は、↓の通りです。
(修学院の「会報」をそのまま載せます)

今回は、『江戸・東京開発の夢のあと、を探る』をテーマにしてみました☆
隅田川・佃島・月島を歩いてみたいと思います。
4月4日は明治天皇にあんぱんが献上された日で、「あんぱんの日」になっていることをご存知でしたか?あんぱん片手に銀座から月島へまっすぐ南下するというのが今回のコース設定です。徳川家康が大阪から連れてきた漁師たちが住んだ佃島は、昭和には石川播磨重工業の中心地として栄え
ました。月島も同様の工業地であり、昭和15年の幻の「東京万博」の会場地でもありました。戦災から逃れることができたために、この地域にはいまも昭和の姿が色濃く残っています。
明治~昭和と日本激動の時代に誕生したこの土地で、先人たちがなにを残そうとしたのか、皆さんで歩きながら考えたいと思います。
散歩終了後は、恒例の懇親会(今回は「もんじゃ」でどうでしょうか?)を月島で取りたいと思います。



銀座から月島という地域は、日本の明治時代から現代まで続く、「近代化」の過程がそのまま保存されている地域だと思うのです。この「近代化」の光と影の部分を全部見て欲しい、見てみたい、という思いから企画を設定しました。

銀座の地名の由来は、江戸時代に徳川幕府がこの町に、銀貨の鋳造や銀地金の売買を行った役所を置いていたことにあるのですが、役所そのものは1800年に蛎殻町に移転しています。元々、「新両替町」という名前だったのですが、「銀座」という名前が愛称となり、地名として定着したといわれています。

徳川家康・秀忠・家光の三代期には、この町の整備が行われました。
その後、大きな町割りが行われたのは、1657年に起きた「明暦の大火」後でした。この火災で、江戸の市街地の大半が焼失しましたが、銀座もまた同様に被害を受けました。
しかし、銀座は、いまの街のイメージではなく、むしろ、「職人の町」としての側面が強かったようです。

また、徳川家康は、幕府の式楽となった能の四座のうち三座を銀座に置きました。
このため、現在でも、歌舞伎座が東銀座のシンボルになるなど、そのイメージが保たれているといえます。

現在の銀座のイメージになっていくのは、むしろ明治時代からだといえます。
明治政府に、銀座の改造を強く迫ることになるのは、維新後すぐに起こった火災でした。
特に、1872年の銀座大火は有名で、銀座一円が焼失してしまいました。
この時に銀座改造を強く決意するのは、由利公正・東京府知事でした。
トーマス・ウォートルスの設計によるジョージアン様式の煉瓦街の建設が行われ、「不燃都市化」が目指されました。

そして、二度目の大改造は、関東大震災の後です。
壊滅的な被害を受けた東京から帝都そのものを遷都する計画もありましたが(現実的に、現在のソウルに日本の帝都を遷都するという意見が政界でも、軍部でも強かったようです)、政界でも実力者となっていた後藤新平・東京市長による帝都復興計画が決定され、銀座も含めて東京全体を大改造されました。この時に、煉瓦家屋のほとんどは取り壊されました。

最後の大改造は、やはり戦後の復興から現代までの時間の流れだと思います。
この時期をどう定義・分解していくかは、色々な意見があると思います。
それは今後の「都市論」としてまつことにしたいと思います。

この地域のポイントですが、歌舞伎座を過ぎた先、築地市場の手前に、「華僑ビル」というのがあります。戦前に建設されたものですが、いまだに現役のビルなのです。「ライライ」という喫茶店がまだテナントに入っているようです。ネットで調べたら、平日しかやっていないようなので、今度、タイミングをみつけて、のぞいてみたいと思います☆
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2009.04.03 (Fri)

そうだ、名古屋へ行こう 7

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名古屋城の前には、名古屋市役所や愛知県庁がありました。
格好いいですねぇ☆

こんなステキな行政府をもっている名古屋のヒトたちは、うらやましいです!!
名古屋市役所(上ふたつの写真)は、昭和天皇陛下の即位を記念して創建された建築物なんですが、知ってましたか?
これだけ立派な帝冠様式の建物は、東京にもそうそうないですよね。
九段会館(昔の軍人会館)くらいですもんね。

そういえば、「華麗なる一族」でロケ地として使われたことは有名ですよね☆

真横にある愛知県庁も立派な帝冠様式の建物です。
愛知県というのは、もとも「名古屋県」という行政圏域が名前を改称してできたものなのですが、現在の圏域になるのは、1872年11月27日に額田県と合併して完成をむかえることになるんです。
たまには知的な話を♪


今回は時間が来たので、ここまでです。

今月もしくは来月にはもう1回きたいと思います。
少なくとも、この愛知県庁や名古屋市役所の裏にある白壁地域や二葉館(日本の女優第一号として名をはせた川上貞奴と電力王と言われた福沢桃介が共に暮らした家)、徳川園などはみてまわりたいと思います。

名古屋は本当に、歴史ある街ですね。
歴史豊かな街は、すてきな魅力をもていると思います。

愛知県民、名古屋市民の方、この愛知・名古屋という大地を大切にされてくださいね☆

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2009.04.02 (Thu)

そうだ、名古屋へ行こう 6

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名古屋城を見に行きました。

名古屋城の詳細に関しては、wikipediaでチェックしてくださいwww。

しかしまぁ、名古屋城をひとりで見学しにいくというのは、なしのような気がしますねwww。
だって、名古屋城ってカップルとか家族連れの観光客ばかりなんですもん。

天守閣の中は、展示ブースになっています。
最上階までのぼるの大変でした。
もう、歳ですねぇ。。。
息があがってあがって。
最上階にのぼったときには、汗だくだくでしたwww。

名古屋城は戦前は皇城の一部として、また陸軍部隊の駐屯地として存在していたそうです。
そのため、戦中は米軍の爆撃にあい、歴史的価値の高い名古屋城の本館などはすべて焼き尽くされてしまいました。この本館の復興事業が現在すすめられています。寄付金で成り立っているようですが、ぜひ再建を実現してほしいと思います。

大変優雅な城で、また要塞としての堅牢さもその濠の深さなどをみると、圧倒されます。
男のヒトの多くは、お城とか好きなヒトが多いと思うんですが、やっぱり濠とか気になりますよね・・・・・・・・・・・・ね?


個人的に気になったことがあるのですが、名古屋城の外にある体育館とかは結構イベントとかやっているんですかね?ライブとかできたりするんでしょうか?
ちょっと気になりました。


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