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2009.03.30 (Mon)

そうだ、名古屋へ行こう 5

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白雲橋を別の角度・三賞亭からみた風景。
すばらしい景色です。
さくらの時期になると、美しいでしょうねぇ。
(来年、桜がさく頃にまた来てみたいと思います)

三賞亭に関しては、またまた「NPO揚輝荘の会」さんのHPから転載させていただきたいと思います。

三賞亭

大正7年に茶屋町から移築された揚輝荘最初の建物(煎茶茶室)。
朽ち果てようとしていたものを再構築し、お茶会が開かれるようになりました。
室内から丸窓を通して眺める白雲橋、稲荷、灯籠、秋は紅葉、春は桜がすばらしい。
池を臨む煎茶茶室であります。
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14:21  |  【 こんな処に行ってきました 】  |  トラックバック(0)  |  コメント(0)

2009.03.29 (Sun)

そうだ、名古屋へ行こう 4

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日泰寺をぬけると、揚輝荘という庭園があります。
この揚輝荘というのは、松阪屋の創業者である初代伊藤次郎左衛門祐民の別荘でした。

大正7(1918)年に、茶屋町本家から三賞亭を移築し、その後20年をかけて設計・建築されました。当時最盛期には、移築・新築された建物30数棟が一万坪の敷地内に威容を誇っていたそうです。

揚輝荘を管理している「NPO法人揚輝荘の会」さんのHP(http://yokiso.org/)に現在見ることの出来る建物の説明が書かれていますので、これを転載させていただく形でご紹介したいと思います。
ちなみに、たぶんこのNPOのボランティアの方々だと思いますが、ひとりで伺ったときに、とても親切に、また丁寧に色々と解説してくださり、大変気持ちの良い場所でした。なかなか、笑顔のすてきなおじさんたちで、本当にこの揚輝荘というものを愛しているのだなぁ、と思いました。


【写真1】

白雲橋

北庭園は京都の修学院離宮の地割を模しており、白雲橋は千歳橋の写しである。屋根のある橋(亭橋)であり、手本にした千歳橋より大きい。白雲橋の屋根は緑釉瓦で、一部銅版葺きだが、千歳橋はこけら葺。天井の木組み、白木の手彫りの擬宝珠、無双窓が美しい。北側の天井には、十五代祐民氏の描く龍の絵があり、東の青龍水に龍とマッチしている。
最近では、橋の上を舞台に、東側を客席にして音楽、舞踊などのイベントを開催している。北庭園のシンボルともなっている。



【写真2】

豊彦稲荷

北側の高台に、両脇を狐が守る豊彦稲荷の社が鎮座しています。昇り坂の参道には、朱塗りの鳥居が林立し、周囲の緑とのコントラストが見事です。手水鉢の石には、沢山の寄進者の名が刻まれています。昭和のはじめに松坂屋京都店から勧請されたものですが、そのときの三千二百余名にも昇る勧進帳が残されています。このお稲荷さんのルーツは、京都仙洞御所にあった御所稲荷(豊彦稲荷)であったことが最近判明しております。
毎年桜の頃、初午祭が行われ、多くの人が集い、園遊会茶会が催されます。
なおこの部分については名古屋市の土地ではなく、市に寄贈されたとき一時は宗教色が出るからとの理由で壊される予定もあったのですがこの部分をマンションの所有にして頂いて崩壊の危機を免れ残す事が出来ました。信長塀も緑の中に映える赤い鳥居も北庭園の景観の中で失いたくない貴重なものです。社にある賽銭箱は天保12年と記されています。



【写真3】

伴華楼

昭和4年尾張徳川家から移築された茶室(4畳半)付きの座敷(明治33年建築)に、鈴木禎次設計の洋間(東洋風)を新築してドッキングし、「Bungalow」をもじってバンガロウと呼ばせている。鈴木禎次は、名古屋の近代建築の巨匠、夏目漱石の義弟であり、名工大(名工専)教授。鶴舞公園の噴水塔・奏楽堂を手掛けた方だと言えば判りやすいかも知れない。傾斜地のため、南面する玄関は一階、和室は二階のレベルになっております。二階洋間外壁面、サワラのうろこ壁は和室部分にもつながり、ドッキングの違和感がなく、手作りの銅釘が浮いている。和室には千年杉の張り合わせ欄間があり、ここでは伊藤家の伝統行事が行われている。二階洋間の暖炉には、飛鳥時代のものなど、古代瓦が埋め込まれている。一階応接間の壁には餅つき兎のレリーフが付いていますがこの地が月見の名所であることの遊びこころでしょうか。玄関テラス前の階段には聴泉窟や橋と同じく五色石の意匠がここにも繰り返して使われている。


まだ整備されていない部分がたくさんありますが、しかし、手作りで再生させていっているということを実感できる庭園です。NPOという社会的意義を改めて認識することのできた場所でした。

入園は無料です。
ぜひ、日泰寺に行かれたときは、この揚輝荘ものぞいてあげてください。
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18:44  |  【 こんな処に行ってきました 】  |  トラックバック(0)  |  コメント(0)

2009.03.28 (Sat)

そうだ、名古屋へ行こう 3

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覚王山の日泰寺に行きました。
ぼくは別に仏教徒ではないのですが、お釈迦さまの仏舎利(※遺骨のこと)が奉安されているお寺と聞いていたので、ぜひのぞいてみたいと思っていました。
また、このお寺は日本とタイの友好・交流を示すお寺だとも聞いていたからです。

安置されている仏舎利は、タイ王国(当時のシャム王国)から日本に寄贈されました。明治33年のことです。もともと、インドでイギリスが釈迦の仏舎利を発見・発掘し、仏教王国として栄えていたタイに譲られたのがはじまりです。そして、同じ仏教を信奉する日本に、当時の国王であるラーマ5世が仏舎利の一部を譲ることをお決めになられ、お寺がここ名古屋・覚王山に創建されました。最初、このお寺の名は「覚王山日暹寺」といいました。しかし、昭和20年に空襲にあってしまい、全焼してしまいました。戦後復興もあり、昭和24年にシャム王国がタイ王国へと国名を変えたこともあわせて、お寺の名前を「日泰寺」と変えたといいます。

「覚王」とは釈迦のことで、「悟りの王」という意味です。「日泰」とは、「日本とタイ」をあらわしています。また、お寺の管理も超宗派で行っています。とても、おもしろいお寺ですよね。
仏教の教えでいう(すいません、仏教徒ではないので、勉強不足ですが・・・)「万教同根」の精神がみてとれませんか?

国と国の友好を示す宗教施設としても重要な気がします。
日本に仏舎利の一部を譲ることをお決めになられたラーマ5世というのは、日本ではあまり知られていませんが、タイの歴史においてこの王ほど比類なき偉業を残した王もいないのではないでしょうか?タイの近代化を成し遂げた人物であり、日本でいえば、明治天皇陛下のような方だと思います。いまでも、多くのタイ国民から尊敬されていると聞きます。

日本とタイは同じ皇国として大変古い付き合いがありますし、第二次世界大戦では日本と同盟を結んでいました(まぁ、しかし、裏で自由タイ抗日運動なんかもありましたが・・・)。現在も、そのつながりは大変深く、現国王であるラーマ9世は大変親交の厚い秋篠宮文仁親王殿下を「我が子」とお呼びになるなど、日本とタイの関係の深さは皇室外交によっている部分が大きいといえます。

ぜひ、名古屋に来た折りには、この覚王山にも足を伸ばされることをおすすめします。
なかなかこういう面白い由来を持っているお寺は、そうそうありませんよ☆
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14:33  |  【 こんな処に行ってきました 】  |  トラックバック(0)  |  コメント(0)

2009.03.25 (Wed)

修士号をもらいましたぁ!

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あいにくの雨ですが、ぶじに学位を授与されました♪

まだいくつかイベントが残ってますが、ホッと安心☆
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16:01  |  【 徒然と 】  |  トラックバック(0)  |  コメント(4)

2009.03.22 (Sun)

台湾から帰ってきました!!

李登輝先生との写真


なぜか集合写真で李登輝大統領の横に立たせてもらい恐縮なことになっております(汗)。

台湾から無事に先ほど帰ってくることができました。

台湾では、
・立法院(国会)で国民党議員との交流・懇談 (国会の機能・機構改革についての勉強と台日交流促進についての議論)
・台湾師範大学での学術交流 (台湾師範大学のHPに動画付の記事が載っていました http://pr.ntnu.edu.tw/news2.php?no=4229
・李登輝元大統領との勉強会 (リーダーシップ論・人間論などを論じてくださいました)
・王月鏡元台北市民政局長との勉強会 (自らの体験にもとづいた行政改革論を論じてくださいました)
・経國記念堂にて国際傑人会総会への出席

を主な日程とし、
わずかな自由時間では、個人的に
総統府前での写真


・中正紀念堂などを案内する
・総統府周辺や西門町を散策する
・故宮博物院で某国民のマナーの悪さに切れる(!?)
・士林夜市で迷子になる(!?)
・公館のロックライブバーに潜入する(!?)
・台湾大学のキャンパスの散策に挑戦するも、疲れと雨で断念してしまう (> - <)。

などをしてきました。

傑人会での卓写真

今回の研修旅行に参加してくださった修学院生の皆さんには、大変ご迷惑をおかけしてしまいました。院生をとりまとめる幹事長という大職を頂きながら、非才の身に恥じるばかりです。ですが、今後とも、粉骨砕身、「國造り」のために邁進していきますので、お見捨てなきようお願い申し上げますm( _ _ )m。
写真などがあがりましたら、少しずつ報告をさせていただきたいと思います。


・・・もう、毎度の如くバダハタでした(苦笑)。
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20:50  |  【 想う修学院のこと 】  |  トラックバック(0)  |  コメント(6)

2009.03.18 (Wed)

そうだ、名古屋へ行こう 2

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まず、旅の安全を願い、熱田神宮に行きました。

熱田神宮はもうご説明することもないほど有名な神社ですね。熱田大神を祭神としますが、この神さまは草薙剣の霊体とも、日本武尊とも、この地域の原始宗俗における祭神とも言います。解釈は色々あるようですが、通例では草薙の剣と考えられています。

皇位継承のための神器のひとつである剣を祭っている神社ですから、その社格は大変高く、伊勢神宮の次に位置します。
(熱田神宮を伊勢神宮と同じ社格にするような動きが過去何度も起きているようですが、その理由としては三種の神器のひとつを祀っているのだから、というのが大きな部分のようです)

おもしろいことに(というよりも、今回はじめて知ったのですが)、言葉の意味どおりであるに違いない「国宝」草薙の剣は過去何度か盗難にあっているようなのです。もちろん、壇ノ浦の合戦で喪失したのではないか、とも言われていますが、盗難にあったという事実は歴史の教科書では勉強しません。

天智天皇7(668)年、道行という新羅の僧に盗まれる(!!)。
そして、しまいには天保10(1839)年には妖僧が盗み出そうとしていたらしいのです(ちなみに、これは八剣宮の御神体だし、未遂に終わっているのですが・・・八剣宮の御神体って何?)。

オイオイ・・・って感じです(笑)。

また、この草薙の剣がこの鎮座の地から移されることもありました。
昭和20(1945)年の終戦勅語、アメリカの占領軍から草薙剣を守るため、飛騨にある水無神社へ一時的に移したという歴史があります。この移すときは帝国陸軍の手によりなされたのですが、熱田神宮に戻すときは、陸軍が解体されていたので、宮司さんたちの手によって鉄道移動をしながら、元にもどったようです。
宮司さんたちは緊張しなかったのでしょうか?・・・。

写真の鶏を不思議に思われた方もいるかもしれません。
この鶏、飛ぶんですよ(!?)。
熱田神宮で飼っているわけではなく、氏子のヒトが献上したものが勝手に野放しになっているだけなのだそうです。しかし、別にどこか檻の中に飼っているわけではないので、野生の犬などに食べられる危険性だってあるわけです。そんな危険な状態を生き残るため、この鶏たちは、飛ぶんです(笑)。木々の上まで飛び、そこで寝るそうです。
・・・本当でしょうか?ww
・・・それよりも、この金色に光る鶏、熱田神宮にお似合いですよね。

そして、もう1枚の写真。
大楠です。
この大楠は弘法大師のお手植えと伝えられています。
幹周7.7m、樹高20.5m、樹齢1000年、という大変立派な木です。
神宮の奥にはまだ大きな木があるそうなのですが、弘法大師が植えたからだけではなく、やはり、こういう大きな木には日本人として、自然と畏敬の念がおきますよね。
ぼくは静かにこの木に参拝してきました。

小雨がふっている中、熱田神宮を人生はじめて参拝しましたが、とても清らかな心になることができました。やはり、神社は日本人の真心の源泉・原点ですね。



あしたから、台北です。
国民党の国会議員たちや、台湾師範大学院台湾史研究科の先生・学生さんたち、台湾財界の方々、そして李登輝元大統領などにお会いしてきます。

帰国したら、名古屋編を再開しますね。
ではでは☆
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17:46  |  【 こんな処に行ってきました 】  |  トラックバック(0)  |  コメント(0)

2009.03.14 (Sat)

そうだ、名古屋へ行こう 1

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名古屋駅の大きさにビックリです!
さすが、百貨店大国・名古屋。


…ただね、早く着きすぎると時間のつぶし方を教えてもらわないと、なにもできない街・駅ではある(汗)。

…それと、もう少しトイレをきれいに掃除して、そして洋式トイレを増やしてください(笑)。


さて、街が起きだしたら、いろいろと見て回りたいと思います☆



そうだ、携帯版でもブログが読めるようになりましたよ♪
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06:34  |  【 こんな処に行ってきました 】  |  トラックバック(0)  |  コメント(0)

2009.03.12 (Thu)

そうだ、京都へ行こう 11

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最後は、御室仁和寺へ行きました。
ぼくがどうしても行きたかった場所でした。
(どうしても行きたい場所ばっかりですねwww)

真葉宗御室派の総本山ですが、お寺の正式名称は旧御室御所跡仁和寺と言います。

開基(創立者)が宇田天皇であられ、帝が法皇になられてからお住まいになったことから、「御所」という名前がつきました。

開基は宇田天皇であられますが、建てられはじめたのは、光孝天皇の勅願によります。

こういう皇室ゆかりのお寺ですから、明治時代まで皇族の方が門跡(住職)をつとめてこられました。
(最後の門跡は、小松宮彰仁親王であられます)

このお寺のすごいところは、江戸期・寛永年間に皇居が立て替えられるのですが、その時に旧皇居の紫宸殿や清涼殿、常御殿が下賜という形で移築され、それがそのまま残っていることです。この紫宸殿を移築した形の伽藍・金堂は、国宝に指定されているんですよ。

500円で拝観でき、さらにボランティアの方によって、お寺の詳しい説明を聞くことができます。ぼくは幸いなことに、説明を聞くときに最前列・真ん中に座ることができました。お寺の多くが納得しにくいお金をとりますが、このお寺の伽藍や庭園は、お金を出す価値があります。安いくらいです。ぜひ、京都に来られたときは、伺われてください。

来年は、台湾の李登輝学校のヒトたちを、京都にお招きしたいなぁ、と思います。台湾の友人たちに、修学院離宮などをぜひ見せたい!

京都編はここまでです。
ではでは☆
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02:18  |  【 こんな処に行ってきました 】  |  トラックバック(0)  |  コメント(0)

2009.03.06 (Fri)

そうだ、京都へ行こう 10

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北野天満宮よこの上七軒地域で、お昼ごはんを食べました。

ここも、NPO『都草』の坂本さんにご紹介していただいた場所です。
ランチ時なので、みなさんそれぞれ思い思いのものを。
ぼくはカレーを頼みました。

食事中は、修学院京都の理事である小林路義先生に、京都の花街の文化や歴史にいて解説をしていただきました。

さぁ、いまから最後の見学場所。
御室仁和寺へ出発です。
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22:19  |  【 こんな処に行ってきました 】  |  トラックバック(0)  |  コメント(0)

2009.03.05 (Thu)

そうだ、京都へ行こう 09

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御所を散策したあとは、バスに乗って、北野天満宮に行きました。
時間にして10分くらい。

もう梅が咲き始めている頃でした。
京都はそんな季節なんですね。
これを書いている時点では、北野天満宮の梅も満開になっているでしょうか?

祭神はもうご説明するほどでもないと思いますが、菅原道真です。
ぼくは福岡生まれなので、太宰府天満宮に必ず毎年行きます。
社殿の形がほとんど同じなので、とても不思議な思いがします。

文章博士の一族でしたが、宇多天皇にその才を見出され、国政改革に邁進した菅原道真でしたが、延喜3年(903年)好敵手の藤原時平に大宰府権帥として左遷されてしまい、その地で没してしまいます。その後、祟り恨みといった伝説が生まれるのは、皆さんご存知だと思います。

ぼく自身は、この菅原道真vs藤原時平というのは、国政改革に関する考え方の違いで対立したんだと思います。もちろん、ふたりがあまり性格があわなかったという記述が、「神皇正統記」「扶桑略記」などに書いてあるので、伝説はあながち間違っていないと思いますが。
しかし、菅原道真が左遷された後も、道真の子どもや彼が育てた官僚集団は藤原家に登用されて政治改革の一旦を担っていますから、当時の国政改革における派閥争いや志向の違いというのが、昌泰の変の背景にあったのではないかな、と思っています。

う~ん・・・どうなんでしょうね?
あまりにも、藤原時平が悪役になりすぎていて、真実が隠されているような気がします。


天暦元年6月9日(947年)、北野に菅原道真を祀る社殿が造営されました。その後も色々と増築・改築されていき、いまの姿になっていきます。

永延元年(987年)に初めて勅祭が行われ、一条天皇より「北野天満宮天神」の称が贈られましたが、「天神さま」「天満宮さん」などという呼び名が広まるきっかけになったのは、これが理由でしょう。
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07:39  |  【 こんな処に行ってきました 】  |  トラックバック(0)  |  コメント(0)

2009.03.04 (Wed)

講演会「チベット-闇に葬られた50年」のお知らせ。

講演会「チベット 闇に葬られた50年」

- はじめに -
1959年(昭和34年)3月10日、チベットの首都ラサで、いわゆる「中国人民解放軍」のチベット人への度重なる挑発に対する最初の武装蜂起が起こりました。この事件が、当時24歳だったダライ・ラマ14世(現、ダライ・ラマ法王)が、チベット民族の破滅的惨事を回避すべく、夜陰に乗じてラサを逃れ、厳寒のヒマラヤの尾根を数週間かけて越えチベットを脱出、インドへ政治亡命を求める契機となりました。その最初のチベット蜂起から数えて今年3月が、ちょうど50年目にあたります。毎年3月10日は、チベット民族蜂起記念日として600万人のチベット人の心に刻まれてきました。最初の蜂起から半世紀を迎えるその日がまもなくやってきます。

最初のチベット蜂起から50年目を迎えた2009年(平成21年)3月16日、チベット自由人権日本100人委員会は、「チベット-闇に葬られた50年」と題して講演会を開催します。チベット人の過去50年間は、中国共産党の非人道的・植民地支配下において、民族の自決権を奪われ、2千年ものあいだ継承され続けてきた伝統文化が破壊され、民族としての誇りを傷つけられ、そして家族を奪われた半世紀でした。現代に暮らす日本人の想像力をはるかに超えたチベット人の苛酷な50年間。世界は、それを「中国のチベット人に対する人権侵害」という言葉で非難しています。しかしながら、チベットの惨状は「人権侵害」といった言葉で表現するにはあまりに言葉が足りません。日本人の言うところの「人権侵害」といった概念では推し量ることのできない「非人道的・略奪的・植民地支配」がいまチベットで行われています。

チベット自由人権日本100人委員会主催の講演会「チベット-闇に葬られた50年」では、チベット臨時政府議会の議員でダライ・ラマ法王の甥、そしてチベット独立派とされるケドゥープ・トゥンドゥップ氏(Khedroob Thondup)を迎えて講演を行います。またこの機会に併せて、第二次大戦下のチベットの貴重な未公開映像もご紹介いたします。


- 講演者ご紹介 -
ケドゥープ・トゥンドゥップ氏

ケドゥープ・トゥンドゥップ氏(Khedroob Thondup)
チベット臨時政府議会・議員
過去20年間ダージリン・チベット難民自立センター所長
ダライ・ラマ法王の甥。
著書に、「混乱のチベット」「ダライ・ラマ、私の息子」がある。


- 会場と日時のご案内 -
とき: 平成21年3月16日・月曜日
    開始 午後6時~午後7時30分。(のち懇親会。終了は9時ごろ)
    ※開場は午後5時40分です。

場所: アルカディア市ヶ谷・私学会館 (東京都千代田区九段北4-2-25 Tel.03-3261-9921 私学会館)

進行:
第一部 映画 「チベット、消し去られた風景 1942-43」
第二部 講演 「チベット-闇に葬られた50年」 
         講演者 ケドゥルプ・ダンドゥップ氏。
        講演後のち質疑応答。
第三部 チベット自由人権日本100人委員会・懇親会


- シンポジウムご参加方法 -
            一般参加の方 学生の方
講演会参加のみ     2,000円    1,000円
懇親会にも参加    10,000円    6,000円
※お支払いは、銀行振込またはネットでクレジットカード決済(VISAまたはMaster)がご利用できます。 なお、チベット100人委員会の会員の方は千円引きとなります。


- お申し込み方法 -

ネットでお申込: http://tibet100.jp/lecture0316 (委員会HP内)
お問合せ先:  電話.03-3445-9006 チベット100人委員会事務局




なにとぞ、活動趣旨含め皆さまのご理解・ご協力を賜りますよう、お願い申し上げますm(_ _)m。
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2009.03.03 (Tue)

そうだ、京都へ行こう 08

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日記の更新を少しあけてしまいました。すいませんm(__)m。いまちょっとした“仕掛け”づくりをやっているものですから、バタバタしていました。

さて、京都研修報告の続きです。

最終日はまず、ホテルのすぐ近くにある京都御所に行きました。ぼくは夕暮れ時の京都御所ってとても好きなんですが(御所だけじゃなくて、京都って夕暮れが本当に映える町ですよね)、朝の景色も素敵ですね。

ぶらぶらと散策していたら、“学習院跡”を見つけました。学習院卒業生が多いグループなので、皆さん、思うところがあったのではないでしょうか?ぼくは大学入試(自己推薦)のときは学習院を落とされちゃいましたが(笑)。

現在の京都御苑の管理というものは環境省が管轄しています。京都御所は宮内庁が管理していますが、公園としての京都御苑は環境省の管理なんですね。そして、東京とは別に、この御苑の中には、迎賓館があるのですが、ここは外務省の管轄となっています。実はぼくはいままでこの違いを知りませんでした(汗)。

京都は桓武天皇が遷都をなされてから、明治天皇の江戸行幸がなされるまで1000年間のわが国の都でした。応仁の乱をはじめ、途中何度も戦災にあい、荒廃してしまいますが、安土桃山・江戸の時代を経る中でその姿もかつての美しさを取り戻していたようです。

しかし、京都が再び荒廃をはじめるのは、皮肉なことに禁廷が江戸の徳川幕府から大政を取り戻した明治維新期からはじまるのです。明治維新のスタートをどの時点から考えるかは難しい問題だと思いますが、明治の執政をはじめるのは、明治天皇の江戸行幸から考えてよいのではないでしょうか?
この時に、明治天皇とともに都に住んでいた公卿たちも江戸・東京へ移り住むようになります。もちろん、公卿だけではありません。公卿たちの生活を支えていた多くの職人たち、生業人たちも、ともに江戸・東京に移ります。この大量の人口流出が京都の都市機能・経済機能を荒廃させてしまいました。

明治10年には、すでにこの荒廃の様があきらかであったようで、明治天皇は京都御所周辺を含め、その保存に尽くすように命ぜられています。この命を受けて、当時の京都府が御所周辺を整備し始めたのが、現在の京都御所のはじまりになります。昭和24年には、国民公園として広く公開されるまでになりました。

いまでは京都市民の憩いの場の京都御苑、ゆっくり散策し、当時の様を思い浮かべるのも、風流ですね。
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19:40  |  【 こんな処に行ってきました 】  |  トラックバック(0)  |  コメント(0)
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