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2015.06.05 (Fri)

【新党設立】 どのような旗を掲げるのか。今こそ新党を。

維新の党・松野頼久 代表
民主と維新が単に合併するのでなく、その他の勢力も一つの旗の下に集まる形が好ましい


与党にとっても自主憲法制定の足かがりをつかむため、

野党にとっても生き残りをかけて、

選挙対策のような「吸収合併」や「新党設立」の話がまたぞろと出てきた。

国民にとっては、戦後70年、とくに昨今において特段驚きもしない、政治家たちの動きに違いない。

国民の失望をくりかえし招くこのような政治家たちの動きはなぜおさまらないのだろうか?

いや、いまこの日記を書いている僕でも、「新党」を創るチャンスはいまだと思っている。

では、なんのために?

やはり、与党が憲法改正を視野に、そして橋本維新がその狙いの実現を頓挫させてしまったこのときに、民主党が独自の政策価値を国民の前に提示できないでいるときに、すべての政党や政治家は、「国のあり方」を問う選挙を提示するべきなのだ。

国民は、社会リーダーである政治家が、いったい自分たちをどのような未来に連れて行ってくれるのかを待っている。

国民は本当は政治家がリーダーシップを発揮する姿を待ち望んでいるのだ。
誰もがそうであると僕は信じている。

その未来図こそが、政治家があつまるべき「旗」なのではないだろうか。

民主党と維新はなんのために、他の野党も含めて、どのような「旗」を掲げて集まろうとするのか。

そのような政策の一致も、思想の一致もないなかで、「強い野党を創る」ことができるとの考えは盲信のほどがひどいというものだ。

だからこそ、逆説として指摘するのだけれども、

今こそ「新党」を創る覚悟で、各政治家はなぜ自分がバッジをつけたのか、政治家を志したのかを、その胸に問うてはどうか。

ここで提案をしてみたい。

次の国政選挙は「衆参ダブル選挙」をぜひしてもらいたい。

その前提で、現在の憲法を改正するための要件が定められている【96条】を

緩和するか」「護るか

もうこのテーマだけで、国政選挙を戦ってはどうだろうか。

たしかに、国家の指導者を選ぶ国政選挙においては、国民生活を護っていく経済政策の議論も必要だろう、国民の安全を保障する防衛政策の議論も必要だろう。

他にもまだまだ多くの課題があるのは確かだ。

しかし、候補者の方々の政見原稿や政策資料、政策広報を書いていく作業に携わってきた者としては、

官僚が用意した行政資料をもとに総花的に公約を考えたり、

票田の獲得・開拓を想定して公約を考えすぎてしまい、結局、諸政策の総合性が矛盾きたしていることに気づかないふりをしていたり、

選挙区事情にあわせて、自身が所属する政党の政権公約を意図的に自己解釈して有権者に訴えるようなテクニックに長じてくるような、

もうそういう選挙をやっているような余裕が、いまの日本にはあるのだろうか?と思うのだ。

どのような政策にせよ、その根本には、現在は憲法の規制というものがある。

ならば、この憲法に真正面からぶつからなくて、政治家たる意義はどこに存在するのだろうか?

憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか

と叫んだ誰かがいたが、

いまや、国家の構造を問い直す分岐点にあるのではないだろうか。

その分岐点にあって、方向を指し示すのが政治家の仕事なのではないだろうか。

護憲派は現在の日本の社会体制を維持していくという思想なのだからどのような政党であれそのままで構わない。

改憲派こそ、「新党」をつくってみてはどうだろうか。

そして、国民投票を経て96条改正がなれば「新党を解党します!」と国民に公約するのだ。

その覚悟があってこそ、憲法にぶつかっていくという姿勢が本物とみられるのではないだろうか。

僕であれば、そうとらえる。

保守政権与党である自由民主党は、自主憲法制定を党是として結党された政党であるはずだ。

ならば、総理、

「自主憲法制定が実現したのちは、自由民主党は解党します」

と国民の前に宣言されてはどうでしょうか。

国民は総理と自由民主党とともに、憲法にぶつかっていくのではないでしょうか。

憲法の議論を乗り越えることができなくて、なぜその先の新しい社会の姿を具体的に政策としてつくっていくことができようか。

まさに、掲げるべきはそういう「旗」であるべきなのだ。



梅本大介 



-・-・-< 以下引用 >-・-・-

毎日新聞 6月4日(木)22時7分配信
<野党再編>構想活発化 「民維合併」や「野党新党」浮上

 来夏の参院選が約1年後に迫る中、野党再編を模索する動きが活発化してきた。民主、維新両党内で「民維両党などによる統一会派」「民維合併」「野党新党」構想などが浮上している。昨年末の衆院選で自民1強により民主、維新両党が伸び悩み、社民、生活両党など少数政党が大敗した反省が背景にある。

 「民主と維新が単に合併するのでなく、その他の勢力も一つの旗の下に集まる形が好ましい」。維新の党の松野頼久代表は4日、東京都内で記者団に語った。民主、維新両党などが解散した上で他の野党勢力も結集し「野党新党」を結成する持論を改めて強調した。

 野党再編構想が具体化したのは先月の大阪都構想の住民投票後、維新代表に就任した松野氏が「年内に衆院で100人規模の野党勢力結集」を呼びかけたのがきっかけだ。松野氏は就任以来、民主党の岡田克也代表のほか、生活の党の小沢一郎共同代表、旧みんなの党代表だった浅尾慶一郎衆院議員ら各党党首級と相次いで会合を開催。関係者によると、新党構想を中心に野党再編について活発に協議しているという。

 一方、岡田氏は先月下旬、社民党の吉田忠智党首、生活の党の小沢氏とも立て続けに会談し、野党連携に向け協力する考えを確認した。

 新党構想は、今年9月の岩手県知事選や10月に想定される参院岩手選挙区補選での民主、維新、生活などの連携を経て、臨時国会から年末までに各党が解散し、新党を結成する「対等合併」案。「インパクトも強く、強い野党への期待感が出てくる」(民主関係者)とのメリットがある。

 一方で、民主のリベラル派や維新の大阪系など新党構想に反対する勢力が各党を引き継ごうとして党内分裂を招く恐れもある。このため、民主を存続させ、他党からの吸収合併に持ち込む合併構想も民主執行部を中心に有力だ。また、「今国会での共闘を受け、臨時国会で統一会派を結成」(民主中堅議員)する構想も浮上しており、再編への発展を狙う。

 ただ、いずれの案も実現には各党内の反発が予想される上、構想実現に汗をかくまとめ役は見当たらない。民主、維新両党の一部議員からは小沢氏の仲介を期待する声も上がっている。【村尾哲、福岡静哉】
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2013.09.17 (Tue)

国民主義者による日本国憲法否定論。

「デモクラシー」の時代と言われる大正時代、その時代背景もあって急進的デモクラットのひとりであった植原悦二郎は、国家の統治を左右する主権は、一般国民にあるとする「国民主権主義」を唱えた。「主権在民」を唱え、大正デモクラシーの雄であった吉野作造と憲法論を争った植原は、民主的な理論の代表者としてその名をはせていた。

植原によれば、国家主権とは国民意志の総合であって、天皇の統治権とは別個なものであると捉えていた。帝国憲法第1条によって、天皇大権は明確に制限されており、最高決定権力というようなイメージの「主権」とは根本的に異なると主張した。そのような植原にすれば、国民主権を第1にかかげ、大日本帝国憲法体制から全く転回されるようなGHQ民政局による日本国憲法は、諸手をあげて歓迎できるものであったはずである。植原は、日本国憲法制定時には、国務大臣として副署もしている。

しかし、植原は日本国憲法を日本が受け入れることに抵抗したひとりであった。それは、なぜか。植原によれば、日本国憲法の欠点は、①軍備を有しない国は独立国家ではなく、②独立国家でなければ国際社会でその責任を十分に全うしえず、③国会の機能においては参議院と衆議院の意義が重複しており、④国家全体の機能的配分を考えても地方自治体に財源が伴っていないことが課題として考えられ、⑤そもそもこの日本国憲法では改正を要しても実現不可能である、というものであった。

では、植原は日本国憲法の施行そのものにも反対したのであろうか。いや、植原は日本国憲法の存在は、結局、受け入れるしかない、という結論に至っている。その理由を、植原は憲法調査会第8回総会においてこのように語っている。

とにかく帝国憲法の73条の修正の規定をもってそうして議会に出して、それを陛下の詔書によって出し、そうして貴衆両院が絶対多数をもって決定した。こうなれば与えられたものでも日本国民の憲法と承知いたさなければならない。 (『憲法調査会第8回総会議事録』)

植原も、日本国憲法がGHQ民政局から与えられた・押しつけられたものであるとの認識であった。植原とおなじように、戦時中、軍部の大陸政策を批判した「反軍演説」で国会議員を除名された斉藤隆夫も、天皇機関説によって大正デモクラシーの一大人物であった美濃部達吉なども、日本国憲法の受け入れに反対した。

植原が指摘するように、日本国憲法は既にその公布経緯から、如何に国辱の憲法であろうとも、欽定憲法であり、我々日本人の憲法であろう。ならば、その存在を否定することはできない。しかし、この憲法は支配された者に与えられた憲法であるという以上に、植原が指摘するように多くの欠点を有している憲法でもある。だからこそ、日本国憲法は全面改正にせよ、部分改正にせよ、国民皆の議論をもって、改正作業を進めねばならないのである。日本国憲法破棄という理論を主唱する方もおられるが、僕にすれば、全面改正に拠ればその目的は政治的に達し得ると考えている。それよりも、新憲法草案を多くの政党や識者が出すなか、それらほとんどがGHQ民政局憲法(日本国憲法)と体系や文言の構造に依拠している点に疑問を抱かざるをえない。そのような政治哲学では、いつまでたっても、戦後レジームを脱することができないと考えるが、あなたはどのようにお考えになるだろうか。

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2013.04.10 (Wed)

縦割り行政が国家を滅亡させる -講和交渉、昭和天皇のリーダーシップ-

第2次世界大戦においてなぜ日本は敗戦を迎えることになったのか。
なぜ日本は被害を増大させることになったのか。
その原因を求め、二度と同じような失敗を繰り返さないようにつとめることに、歴史を学ぶ意義があります。それは決して「個人に対する人格攻撃・批判」ではなく、「構造の歪みに対する批判・修正」であるべきです。
第二次世界大戦における日本の敗戦は、政治や行政だけでなく、現代のあらゆる組織構造の課題を改善することにつながる課題を抱えているのです。

日本の敗戦の決定打となったのは、ソ連の対日参戦でした。
日本と中立条約を結んでいたソ連が突然侵攻してきたことにより、交戦能力を完全に維持することができなくなったのです。このソ連の対日参戦を読むことのできなかったことは、日本の一方的な外交的敗北だとこれまで言われていました。

しかし、事実はそうではなかったのです。
8月9日のソ連侵攻は、2月のヤルタ会談で米国・英国・ソ連の間で密約として決まっていた連合国による戦争密約でしたが、実はこの密談の内容をヨーロッパ各地にいた日本の駐在武官たちは既に察知して、日本本国に情報を伝えていたのです。

日本の在外武官達がすでにヤルタ会談の内容を把握していたことを、連合国側も認識していたようです。イギリスの国立公文書館に所蔵されている『最高機密書類 ULTRA』の中にこの日本の駐在武官たちが日本本国に送っていた暗号電報を英国が解読していた記録が残っています。

昭和20年5月24日のスイス・ベルン海軍武官電ではヤルタ会談でソ連は対日参戦を約束したことを本国に報告しています。その後も、同じソ連の動向を伝える電報は続いています。6月8日のポルトガル・リスボン陸軍武官電、6月11日のスイス・ベルン海軍武官電などがつづきます。7月2日のポルトガル・リスボン陸軍武官電の冒頭は以下のように書かれています。

Russia’s entry into the war against Japan is now a question of the next few weeks ,…
(ソ連の参戦はあと数週間のうち)

8月9日までソ連の対日参戦を知らなかったとされる日本に、実は5月の段階からソ連の動向が情報として入っていたという事実は、何を意味するのでしょうか。

戦時中、各省の情報部は独立したままでした。それぞれの情報部が得た情報を中央政府全体で共有する構造はありませんでした。まさに「縦割り行政」そのものです。日清・日露戦争の頃は、元老を中心とするリーダーたちが伊藤博文や桂太郎を支えるべく、それぞれの利害を超えて、「情報共有」の意思をしっかりと有していました。だからこそ、勝利をつかみとることもできたと言えます。だからといって、第2次世界大戦時の日本のリーダーたちが縦割り行政の弊害を認識していなかったというわけではありません。この時期も、そのような構築に向けての努力はなされようとしていたのです。

5月11日、この際、縦割り行政を廃止するために、戦争遂行のトップ・リーダーたちが胸襟を開いて今後の状況を打開しようと宮中で会議が開かれています。出席したのは、鈴木貫太郎内閣総理大臣、東郷茂徳外務大臣、阿南惟幾陸軍大臣、米内光政海軍大臣、梅津美治郎参謀総長、及川古志郎軍令部総長の6人でした。この6人で戦争の行く末の道筋をつけたいという意志表示であったのでしょう。

この会議で、東郷は国力のあるうちに早期講和を交渉しようと提言します。この東郷の意見に対して、陸海軍のリーダーたちは「一撃後講和」を唱えます。地の利がある本土決戦で連合軍に「最後の1勝」をしたあと、講和をしようという意見です。それが、少しでも有利な条件で講和に持ち込むための戦略であると彼らは考えていたのです。

両者の意見には決定的な戦略眼の違いがありますが、共通していたのは、連合軍との講和交渉の仲介を、ソ連に願いたい、というものでした。当時、外務省政務局長をつとめていた安東義良〔※1〕は、東郷と米内、梅津の3人は日清戦争以前の状態に日本を戻すことも決意し、少なくとも満洲から日本の権益のすべてを引き上げることを構想していたと証言しています。ソ連に与えるべきものはすべて与えてでも講和に持ち込むという意志の強さをリーダーたちは持っていたと評価してよいでしょう。しかし、そのような講和交渉への強い意志を有しながら、その後の会議も含めて、ソ連の対日参戦という情報がトップリーダーたちの会議で8月9日まであがらず、また認識されなかったのでしょうか。

この場合、考えられる可能性は3つあります。

① 駐在武官たちの情報が陸海軍のトップリーダーたちに達しなかった。
② 陸海軍内部(もしくはトップリーダーたちに)で駐在武官たちの情報が無視された。
③ 陸海軍のトップリーダーたちは「一撃後講和」を実現するために対日参戦の情報を秘匿し、外務省や内閣に伝えなかった。


少なくとも情報が陸海軍のトップリーダーたちに伝わって入れば、彼らの「戦争継続」への認識が変わっていたことは間違いないと考えます。なぜなら、すでに彼らは日本を救うには戦争を継続せずに講和するしかないと認識していたからです。陸軍省軍務課長をしていた永井八津次も、阿南の本意は早期講和であったと証言しています。

陸軍内部で終戦工作を担当していた松谷誠大佐が阿南に降伏プランを提示しに行った時に、阿南はこのように返答しています。

「私も大体君の意見の通りだ。君らは上の者の意見の見通しは甘すぎると言う。だが我らが心に思ったことを口に表せば影響は大きい。私はペリーの時の下田役人のように無様に慌てたくはないのだ。準備は周到に堂々と進めねばならんのだ」

松谷とともに終戦工作を担当していた海軍の高木惣吉少将は、官僚的な発言を繰り返し、講和への決定を遅らせるトップリーダーたちを戦後に以下のように批判しました。

「非常にそれは阿南さんばかりじゃない。日本の政治家に対して私が訴えたいのは、腹と公式の会議における発言とそういう表裏が違っていいものかと。一体、その国家の運命を背負った人が、責任ある人が、自分の腹と違ったことを公式のところで発言して、もし間違って自分の腹と違った決定になったらどうするのか。・・・職責がこうだとかああだとか言われるんですよ。それはごもっともなんですよ。だけど平時にはそれでいい。だけど、まさに祖国が滅びるかどうかというような、そういう非常事態に臨んでですね、平時の公的な解釈論をやっている状況じゃないじゃないかと。自分は憎まれ者になってもですよ、あるいは平時の慣習を踏み破ってもですね、この際もう少しおやりになってもいいじゃないかというのが、僕らの考えだった」

阿南たちが早期講和を口に出せなったのはなぜでしょうか。その理由は2つあるように思えます。

① 國體護持を条件に絶対に天皇を護らなければならないという使命。
② 軍内部に内在する主戦派たちを一掃することのできない、長年の軍内部の派閥抗争。

阿南が8月15日に自決した背景を思えば、彼もまた官僚制の硬直に悩み苦しみながら、自らの使命を果たそうとした人物であつたと考えますが、高木が指摘するように、二律背反性が官僚制の硬直のなかで見出されることも事実だと考えます。例えば、陸海軍が講和交渉の前提と考えていた「一撃後講和」を実現するために、「本土決戦」の作戦を立案していた参謀本部作戦部長の宮崎周一は、本土決戦で勝利をあげることが一撃後講和のために必要と訴えましたが、本土決戦は極めて困難だと分かっていたと戦後に証言しています。しかし、作戦部長の立場としては、そんなことは言えないし、作戦を断念することもできなかったと。まさに、このような硬直的な組織状況が日本を敗戦に追い込んだ「日本病」であったと考えます。

しかし、それは軍部のみの問題であったわけではありません。
外交を担当していた外務省も同様であったと考えます。

外務省は当初から陸海軍の情報部の能力を信用していませんでした。外交の専門集団である自分たちが、軍部の情報部に先んじられることはない、国際状況の現実をもっとも現実的に分析できるのは、自分たち外務省であると、軍部の能力を過小評価していました。

その過信が日本の敗戦を決定的にさせる事件が6月7日に起こります。

海軍のもとに、スイスに駐在していた海軍武官が米国・ホワイトハウスと講和に関して直接交渉できる糸口をつかめた、との情報が入ってきます。米国が要求する「無条件降伏」の定義が未だ政府内部でも厳密なものになっておらず、今なら講和交渉に入れる、との報告だったのです。高木はこの情報を信用し、米国と講和交渉に入るべきだと米内に進言します。しかし、米内はこの報告を信じませんでした。米国が日本と現在の状況で講和交渉に応じることは信じられず、この情報は日本の陸軍と海軍を分裂させる謀略であると評価しました。米内は、この情報から海軍は手を引き、外務省に処置を任せるべきと高木に指示を出しました。この時の米国の交渉相手は、後のCIA長官となる戦略事務局のアレン・ダレスでした。彼は、ソ連への警戒感から、戦後に米国がソ連と対抗するためには、日本に国力を残さなければならないと考えていました。そして、日本に講和させるためには、天皇制を残すことを米国が保障する条件をつけて講和交渉に応じなければならない、と理解していたのです。海軍から情報を受け継いだ外務省は、このスイスルートを信用できない・意味ないものと一蹴します。日本の早期講和のチャンスは、縦割り行政による省庁間の意識対立から潰えてしまったのです。

このような組織の硬直化からまったく事態を前進させることのできない状況を打開することができたのは、昭和天皇の「聖断」でした。本来は、中央政府組織のリーダーたちが決定しなければならない政治的決定を、政治の外にある天皇が決断しなくては、「決めることができない」「責任をとることができない」組織にこの当時の政府能力は劣化していたのです。

昭和天皇による第2次世界大戦時における「聖断」は8月聖断が有名ですが、実は6月22日に昭和天皇が先の中央政府のトップリーダー6人を招集した御前会議が重要な「聖断」を示した日でなかったのかと考えます。

6月11日、大陸視察から帰国した梅津は、その視察結果から得た知見を陸軍内部に伝える前に、昭和天皇に奏上しました。昭和天皇の側近である内大臣木戸幸一によれば、梅津は昭和天皇に対し「支那派遣軍はようやく一大会戦に耐える兵と装備を残すのみです。以後戦闘は不可能と御承知願います」と奏上したと言われています。昭和天皇はこの奏上を受け、22日の御前会議に臨むことになるわけです。

昭和天皇はこの戦局の悪化を考えれば、国策の転換をはかるべきではないか、と問いかけます。米内と東郷は、ソ連に仲介交渉を頼みたいと答えます。しかし、梅津は、内外に影響が大きいので、対ソ交渉は慎重にすべきと意見します。11日にこれ以上の戦争は不可能と奏上しながら、早期講和の話に乗らないばかりでなく、軍の惨状を他のリーダーたちに伝えないのです。昭和天皇は11日に奏上した内容を他の者にも伝えよと暗に梅津に詰め寄るのですが、梅津は陸軍参謀総長としての立場の発言から抜け出すことができません。講和を進めることに同意しながら早期の講和にしぶる梅津に「(講和交渉は)よもや一撃講和の後ではあるまいね?」と問い質します。この昭和天皇の発言によって、日本の政治選択から「一撃後講和」は排除されました。昭和天皇は、中央政府のトップリーダーたちに早期講和を促したのです。しかし、結局、トップリーダーたちは「最後の決断」を下すことができず、8月聖断をまつことになるのです・・・。

この対ソ外交をみたとき、当時の日本中央政府は、政府組織内部やトップリーダーたちの間で、情報共有と政策の統合化が課題となっていたことが分かります。最後には昭和天皇の聖断に頼らなければならない、という「決められない」組織構造が、日本の敗戦の最大原因であつたと考えます。

① 決定を下す責任者がいない。
② 会議が踊るばかり。
③ 組織間に情報共有がされない。

このような組織の硬直化は、敗戦時の日本政府だけではありません。
東日本大震災における復興政策などはその代表例でしょうし、現在のあらゆる組織でも指摘することができるでしょう。
そうであれば、私たちが果たすべき組織改革・刷新のポイントや課題は明確なはずではないでしょうか。


※1 「敗戦」という国民的ショックをやわらげるために、「終戦」という言葉を考案したのは、この安東である。

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2013.04.09 (Tue)

己に徹して人のために生きよう -原爆復興・広島、濱井信三のリーダーシップ-

広島平和記念都市建設法。
戦後憲法下ではじめて成立した地方自治特別法です。
1949年5月に国会でこの法律が成立したあと、憲法95条〔※1〕の規定にもとづき広島市民の住民投票による賛成多数によって公布施行されました。92%の賛成であったそうです。
条文は7条にわたります。


1.この法律は、恒久の平和を誠実に実現しようとする理想の象徴として、広島市を平和記念都市として建設することを目的とする。

2.広島平和記念都市を建設する特別都市計画(以下平和記念都市建設計画という。)は、都市計画法(昭和四十三年法律第百号)第四条一項〔都市計画の定義〕に定める都市計画の外、恒久の平和を記念すべき施設その他平和記念都市としてふさわしい文化的施設の計画を含むものとする。
(2)広島平和記念都市を建設する特別都市計画事業(以下平和記念都市建設事業という。)は、平和記念都市建設計画を実施するものとする。

3.国及び地方公共団体の関係諸機関は、平和記念都市建設事業が、第一条〔目的〕の目的にてらし重要な意義をもつことを考え、その事業の促進と完成とにできる限り援助を与えなければならない。

4.国は、平和記念都市建設事業の用に供するために必要があると認める場合においては、国有財産法(昭和二十三年法律第七十三号)第二十八条〔譲与〕の規定にかかわらず、その事業の執行に要する費用を負担する公共団体に対し、普通財産を譲与することができる。

5.平和記念都市建設事業の執行者は、その事業がすみやかに完成するように努め、少なくとも六箇月ごとに、建設大臣にその進捗状況を報告しなければならない。

6.広島市の市長は、その住民の協力及び関係諸機関の援助により、広島平和記念都市を完成することについて、不断の活動をしなければならない。

7.平和記念都市建設計画及び平和記念都市建設事業については、この法律に特別の定がある場合を除く外、都市計画法の適用があるものとする。


この法律の重要なところは、(1)広島を「戦後平和」の象徴都市として定義したこと、(2)中央政府による戦後復興政策の責任性を明確にしたこと、(3)廃墟と化した広島の復興を可及的速やかに進展させるための復興財源を確保したこと、の3点でした。この後、「長崎国際文化都市建設法」、「首都建設法」の成立へと続いていきます。
この法律の国会提出にあたっては、参議院議事部長をつとめていた寺光忠をはじめ戦後の行政法体系を整えた田中二郎や飯沼一省が尽力しました。
寺光は、自身の著書の中でこのように述べています。

「かくして、わたくしは思う。『足を一たび広島市にふみこめば、その一木一草が恒久の平和を象徴して立っている。石ころの一つ一つまでもが、世界平和を象徴してころがっている。平和都市の名にふさわしい国際平和の香気が、全ヒロシマの空にみちみちている。』精神的にいっても物質的にみてもそういうふうな平和郷が、ここに具現されることにならなければならないのである。いつの日にか。」(『ヒロシマ平和都市法』より)

そして、この法律の成立とともに広島の復興を導いた人物として忘れてならないのは、戦後初期に広島市長をつとめた濱井信三です。「平和」を希求する濱井の信念が、現在の広島を形づくったことは疑いようがありません。

敗戦直後の混乱期ですから、中央政府も全国各地の都市の復興を充分な形で支援する財政的余裕はありません。原爆を投下された広島に対しても同様です。そのような中央政府・地方政府ともに財政的制約がある中、市長として中央への陳情をあきらめず、ついに復興財源を確保する広島復興法を成立に導いたのです。濱井の広島復興への信念や構想する政策は、時に広島の既得権益者たちと衝突することもありました。そのような時にも彼は決して「広島復興」への夢をあきらめず、対立者と粘り強く「対話」を重ね、自身の復興政策への理解を得ようとつとめました。濱井の身に危険が及びそうになっても、彼には広島復興への想いを捨てることができなかったのです。濱井の市長就任時の市政方針演説は、(1)市政の民主化、(2)市民生活の安定化、(3)復興事業の速やかな軌道化がその主要な内容でした。原爆の被害、そして戦時経済体制による国民生活の疲弊から回復するには、速やかなる復興政策の実施が何よりも必要であったのです。しかし、国家的財政危機から広島のみを優先的に復興させる財政補助を中央政府が拠出することができない状況が横たわっていることも厳然たる現実でした。そのような政治的閉そく状況を打開するために、広島を「戦後平和」の象徴都市として定義し、広島の復興を通して世界平和を追求しようとする濱井の信念は、敗戦直後という時代が求めた必要なリーダーシップであったのです。それまで広島の復興に注力できていなかった中央政府も、ついに濱井の信念にGHQの国会担当であったジャスティン・ウィリアムズや、吉田茂が賛同を送るに至り、濱井が念願としていた復興財源の確保を整備することになったのです。濱井が遺した手帳の最後のページには、このような言葉が書かれていたといいます。

「己に徹して人のために生きよう」

広島平和記念都市建設法には、東日本大震災の被害から復興が進まない東北の現状を打開するためのヒントがあるように考えます。

東北という地域の文化や歴史を通して、「自然災害と共に生きる日本人」「復興をくりかえして強くなる日本人」の象徴地域として東北を復興に導くことなしには、東北の復興政策は進まないのではないでしょうか。なぜ復興するのか、どのように復興するのか、そのためには各県民・東北の民、日本人全員が一致・一体となって「復興への信念」を形創り、政策に反映させていかなければなりません。

復興とは「国づくり」そのものだと考えます。


※1 一の地方公共団体のみに適用される特別法は、法律の定めるところにより、その地方公共団体の住民の投票においてその過半数の同意を得なければ、国会は、これを制定することができない。

〔参考URL〕
・広島市「広島平和記念都市建設法」紹介ページ
http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/0000000000000/1122608826994/
・中国新聞「広島平和記念都市建設法」条文ページ
http://www.chugoku-np.co.jp/abom/99abom/kiroku/mikan/heiwatoshi.html

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2011.08.08 (Mon)

日本・韓国・北朝鮮の歴史認識から考える『未来志向」という図式。

最近、男性タレントのツイッタ―発言などにより、テレビ番組の編成における「韓流ブーム」の問題指摘や、竹島問題を調査することを目的とした自民党議員による韓国入国を韓国政府により拒否された問題などが、社会的問題として提議されました。

日本と韓国、もしくは北朝鮮を含む朝鮮文化地域とは、隣国同士でもあるにもかかわらず、多くの問題を長年抱えています。

その問題のひとつに、歴史問題があることは誰もが認めるところだと思います。

日本が朝鮮地域を統治した事実に対する評価は賛否両論あると思います。
私たち日本人ではなく、朝鮮民族の方がどのように考えているのか、賛否両論を通して、その問題の本質を考えてみたいと思います。

まずは、日本統治に対して否定的な意見を紹介したいと思います。
朝鮮総連中央の副議長をつとめた白宗元さん(1923年生まれ)という方が、2010年に岩波書店から出版された『在日一世が語る 戦争と植民地の時代を生きて』という本から、抜粋紹介したいと思います。

「はじめに
やむことなく過ぎ去っていく歳月は、まことに早いもので、私はいつのまにか86歳になりました。時折、これまで歩んできた道を改めてふりかえってみることがありますが、随分いろいろなことがあったなと思います。私たちの世代は、満州事変、中日戦争、太平洋戦争、そしてその合間に上海事件(1932)や実際には大きな戦争であったノモンハン事件と、ほとんど戦争のなかで育ち、戦争のなかで生きてきたようなものなのです。朝鮮人は日本帝国主義による過酷な植民地支配に加えて、これらの戦争の重圧のもとで生きなければなりませんでした。
私はこうした日本の植民地支配・戦争の暗い谷間と敗戦によるつかの間の解放の喜び、そして長くつづく民族分断に苦しむ時代を、さまざまな体験をしながら朝鮮、満州、日本で生活してきました。これは波乱万丈の生き方のように思えるかもしれませんが、戦前から生きてきた多くの朝鮮人にとってこうしたことはよくあったことで、私だけが特別の経験をしたわけではありません。
今年は「韓日併合」100年の節目にあたります。今の若い人たちは、平和な環境の中で高度経済成長期に育ってきたので、植民地に対する抑圧がどんなに過酷で悲惨なものであり、戦争というものがどれほど過酷で恐ろしいものであるかを体験していません。また学校でも歴史、とくに現代史については十分に学習していないとも聞いています。だから私はこの本の中で、自分の体験や見聞とともに、できるだけ当時の時代背景についても語りたいと思います 」


では、同じ2010年に発表され、上の白さんの意見とは違う韓国仁荷大学の教授をつとめていた朴贊雄さん(1926年生まれ)の意見(『日本統治時代を肯定的に理解する 韓国の一知識人の回想』草思社,2010年。)を紹介したいと思います。

「創氏改名の実際
南次郎総督(昭和11年~17年)は、非常に精力的に内鮮一体実現のために努力した人物であった。これは彼の良心の発動であり、彼はこれが日本と朝鮮、両民族のためになるとの確信をもって推進したに違いない。彼の唱導によって推進された二大政策に、創氏改名と志願兵制度を挙げることができる。

南次郎総督の好意から発想
朝鮮人の名前は姓(家族の苗字)が一字(例外的に二字)で名が二字(例外的に一字)の組み合わせになっている。これに対し、日本人の名前は姓(家族の苗字)が二文字(一字や三文字の場合もある)で、名が二文字か三文字(一字の場合もある)の組み合わせになっている。しかし一口に言って、その名を見ただけで朝鮮人か日本人かは、たちどころにわかるようになっている。戸籍などを調べなくても、名前だけでそれがはっきりわかるのである。
朝鮮人の名前を見ただけでは、日本人と区別がつかないようにしようとしたのが、南総督の創氏改名の基本的なアイディアであった。それで朝鮮人の元の姓は戸籍上に残しておきながら、戸主が新たに氏を創設して、名乗るときには姓の代わりに氏を名乗るよう決めたのである。
名前の付け方も朝鮮人と日本人と全然違う。それで名前も、この機会に日本式に変えるよう奨励した。こうすると、その名前だけでは朝鮮人と日本人の区別がつかなくなり、それだけ両民族が近付いたことになると考えたわけだ。僕はこれを、南総督の好意から出た発想であると受け止める。朝鮮文化の抹殺を図る陰謀や悪意からきた仕業だとは考えない。
日本植民地時代から今に至るまで、日本に居住する朝鮮人らは通名という日本人名を持って暮らしている。これは日本政府が決めたのではなく、韓国人たちが自ら望んでこの通名制度を認めてもらっているのであり、これもあからさまな差別を避けるためのものである。
植民地時代の、朝鮮在住朝鮮人らは、当時このような通名を自ら望んだのではないけれど、この創氏改名制度に反対もしなかった。地方によっては、ある程度強制されたところがあったかもしれないが、京城では洞会(洞事務所)や学校などから強勘されたというハナシは聞いていない。それでも韓国人らは80~90%ほどが進んで創氏改名に応じた。創氏改名をすれば外見上、日本人と韓国人の区別はつかなくなるが、戸籍の上では元の姓はちゃんと残っているのだから、姓を奪われたという非難は当たらない。

同意しがたい高崎宗司教授の論調
僕の手許に津田塾大学、高崎宗司教授の手になる『植民地朝鮮の日本人』という題の岩波新書本がある。
彼はこの著書で、植民地時代の朝鮮では、日本の官憲ばかりでなく、数多くの日本の民間人がのしていって侵略行為に積極的に加担したことを、実証的に丹念に記載している。しかし彼は1944年、すなわち終戦前年の生まれであり、植民地時代の朝鮮に身を持って接した経験はない。
その当時朝鮮で生まれ、朝鮮で育った僕は、彼の論調には同意しがたい点があまりにも多い。」


白さんの意見が、いわゆる「通説」と言われるものでしょう。しかしながら、同世代の白さんと朴さんとで、なぜこのように意見がことなるのでしょうか。

歴史認識というのは、様々です。日本人と朝鮮民族の間でさえ、違う歴史観が存在するように、同国人の中でさえその差異はあります。それは、それぞれの「体験」を通した「事実」から、「真実」が形成されてしまうからです。そして、それはなにも歴史認識だけの問題ではありません。日本と韓国・北朝鮮が抱える問題は、「戦後」という世界にあって、「ドミナント(あるべき)」ストーリーが固定化してしまっている点にあるのではないでしょうか。そして、そのストーリーから外れるストーリーを、否定・抹殺する思想傾向が存在する。これでは、いくら努力しても、「未来志向」に歩みを踏み出せるはずがありません。どちらの意見を肯定しようが、否定しようが、それは個人の「自由」な意見です。問題は、どちらの意見にしても、その意見というものを「絶対」視することに危機を覚えるのです。保守派は戦後社会の歴史認識の是正を図ろうとしています。しかし、一部の保守派は、その歴史認識の形成において、彼らが批判する戦後民主主義思想によって継続された左翼教育思想というものと全く同じ手法を取ろうとしています。「絶対」を歴史認識で位置づけることは、「教育の死」であると思うのです。そうなれば、「未来志向」は誕生しない。

そういう方向性を考えるうえで、日・韓・北の歴史認識問題は、格好の材料なのだと思うのです。
だからこそ、私は私で、私の歴史認識を堂々とこれからも語っていきたいと思います。それは、相手の意見や思想もまた奥深くまで聴く「寛容」の精神を最も生き方の根幹に置く「保守」派の一人であると誇っていきたいからなのです。
マスコミの問題や領土問題、拉致問題はそれぞれ別々の視点を必要とする問題ですが・・・

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2011.04.27 (Wed)

下野と敗北と勝利と。

統一地方選挙の総括をすれば、「民主党の敗北」という言葉につきるでしょう。
では、裏返して「自民党の勝利」かといえば、そうだとも思いません。
また、みんなの党や新しい地域政党はどうでしょうか。

ふたを開けてみれば、みんなの党はそんなに勢力が伸びたとは思えませんでした。
というのも、昨年の流れから考えれば、もっとより多い議席数を獲得するものと思っていました。

では、地域政党はどうでしょうか。
「維新の会」「新選組」「減税日本」など様々な新しい地域政党が起こりましたが、「維新の会」の一人勝ちで終わったという結果を皆さん感じられるのではないでしょうか。
「減税日本」の敗因として、まず考えられることは、震災の影響です。
これから、日本全体が一体となって復興を果たさなければならないという意識が国民全体に広がりつつある中、「減税」という政策を有権者が選ばなかったということだと思います。

しかし、敗北に関する最大の原因はリーダーシップとグランドビジョンだと思っています。
「減税日本」には減税の先の日本社会に関するグランドビジョンを有権者に伝える作業がまだ足りなかった気がします。「維新の会」にはそれがあります。

大阪府知事の支持率自体は、決して高いものではありません。
以前と比べると格段と下がっています。
しかし、それにもかかわらず、なぜ「維新の会」が勝利したのか。
それは、大阪をひいては関西地区の再編成という大行政改革を、現実として有権者がつきつけられているからです。小泉郵政解散のようにワンフレーズポリティクスと切り捨ててしまえば、それで終わりですが、政治家の使命とは「言葉によって伝える」ものである以上、大阪府知事の手法は政治の正道を歩いていると評していいでしょう。

この大阪の例を考えた時に、自民党や民主党という既存政党は危機を感じるべきです。
つまり、大阪の結果は、既存政党では政治は変化しないという意識を有権者がもっているからです。
では、なぜ「維新の会」なのか。それは、明確な「社会構造改革」像というものを有権者に示しているからだと思います。ただ一辺倒な官僚批判や減税ではありません。有権者皆に考えさせようとする「構造改革」なのです。

戦後、この「構造改革」を目指したのが自民党と民主党であったはずです。
自民党は自主憲法制定により社会改革を。
民主党は二大政党制の実現により、民主主義の進化を。
しかし、いま自民党と民主党はその組織価値が限界点に達しています。
選挙結果がそれを表しているのではないでしょうか。

自民党や民主党が危機にひんしているのは、明確な改革像・日本社会の姿を国民にメッセージとして伝えることのできるリーダーが表に立っていないせいだと思います。
自民党が下野したのは、ある意味では歴史的運命と考えなければなりません。
だからといって、自民党がこのまま滅んでいいかといえば、そうではありません。
自民党の党是である自主憲法制定に向けて、党の再建を図らねばなりません。
それは、今後の日本にとって必要な作業だと私は思います。
自民党は「道州制」なども実現すべき政策として掲げていますが、結局のところ、このような構造改革を成し遂げるためには、憲法構造を変えなければいけないと思うからです。
民主党も同じです。
はじめての政権交代は明らかに失敗でした。
彼らが、二大政党制をどこまでも実現したいのであるならば、政権担当能力を向上させるべく、真摯な反省をしなければならないと思います。そのことによって、自民党もまた政党としての能力があがり、日本全体の国益になるはずです。

ポイントは、両党においても、「新たな人材」を発見・育成・登用することだと考えます。
年齢が問題ではありません。
政治に携わっていた旧世代・旧勢力に代わって、彼らの魂を受け継ぐ新参者が政治の表舞台に出てこなければ、政治の新陳代謝はできないのだと思います。常に、新しい人材が還流していくことこそが、政治改革のあるべき姿ではないでしょうか。それができなければ、そのような政治勢力はただ滅びをまつだけだと思います。

歴史小説家の塩野七生はこのように述べます。
あなたはどう考えますか?。

統治者つまり政治家は、悪いことをしようと考えて悪い政治をしているのではなく、良い政治をしようと考えているのに、悪い政治になってしまう。なぜこのような結果になるかだが、それこそ、統治能力を失った従来のシステムに代わる、新システムの創設を怠ったからではないか。
(『ローマの街角から』より。)


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首相「災害止めるには政権交代」 04年にブログで
西日本新聞 2011年4月26日 22:37

 菅直人首相が野党時代の2004年に自身のブログに「あい続く天災をストップさせるには昔なら元号でも変えるところだが、今必要なのは政権交代ではないか」と記していたことが26日、分かった。衆院予算委員会で自民党の小野寺五典氏が指摘した。
 東日本大震災への対応をめぐり、野党だけでなく党内からも退陣を求める声が強まる中、発言が自らに戻ってきた格好。
 首相は04年10月23日のブログに愛媛、高知両県の台風被害を視察した感想として記載していたが、指摘を受けてもけげんな表情を浮かべ「(自分の文書かどうか)すぐには分かりません」と答えただけだった。

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01:34  |  【 想う日本のこと 】  |  トラックバック(0)  |  コメント(0)

2011.04.06 (Wed)

直接金融の改革は、NPOへの寄付税制改革からはじめられる。

少しずつ少しずつ進んできたというのが、率直な感想です。
しかし、それでも前進は前進。
改革は評価しなければなりません。

そもそも、公共経営研究科(専門職修士課程)に入学した理由は、NPO研究をしたいというものでした。
(それがいまでは、教育行政史をやっていますが・・・。教育もまたNPOの一形態だとは思っているんですけれど)

実際に自分がNPOの事務局を担当させていただいていると、見えてくる問題というのがあります。
いまのNPO法や寄付税制は、NPOに対して個人の方から資金調達しにくくなっています。
もちろん、それでも匿名私募債や会員獲得努力で、企業には負けないほどの資金調達・経営管理をしている団体もあります。
また、法律の不備の責任ではなく、社会を構成するぼくたち国民自身の意識の問題という指摘もあります。

ぼくはどちらも真実なのだと思っています。
ぼくらNPOのスタッフはやはり努力をつづけていかなくてはならない。

ただ、一方でNPOへお金が集まるように、寄付税制などをもっと前向きに、積極的に改革すべきだと思います。
減税は一方において、市場の拡大化・活性化をもたらすことを忘れてはなりません。

NPOだけではありません。経済をテイクオフさせるために必要な起業という分野においても、セーフティーネットを充実させた上で、資金が流れるようにしなければならないと思います。

直接金融と間接金融は使い分けであり、バランスの問題です。
どちらかだけに拠っても、経済倫理も経済構造も崩壊してしまいます。

個人資産がなかなか市場に流通しないのが、日本経済の問題のひとつになっています。
定年退職をしたら経済活動から一線をひくのではなく、むしろ、第2の人生の出発点であるという意識にたつようにすることが重要だと思います。そのために、NPOという装置はとても活用しがいがあると思うのです。

これほど、多様な社会的付加価値を生み出すものもありません。
そして、NPOも堂々と事業活動を展開し、雇用を生み出していく。
この意識がきちんと日本でねも定着した時、日本の「第2の高度経済成長期」は必ず到来するものだと確信しています!

藤原銀次郎の言葉を思い出します。

大いに儲け、大いに金を作って、個人のためにも、社会、国家のためにも、これを大いに利用し、活用して行くことが、いつに変わらぬ実業人の本領でなければならぬ。



■NPOへの寄付、所得控除へ 民主、4月成立で調整
(朝日新聞 2011年4月3日22時6分)

 民主党は、国が認定したNPO法人への寄付優遇制度を4月にも成立させる方向で調整に入った。東日本大震災で寄付や義援金を贈る人が増えていることを受け、成立の見通しが立たない2011年度税制改正法案から抜き出して、実現にこぎつけたい考えだ。

 NPO法人への寄付優遇税制は、寄付金額が2千円を超えた分の40%を所得税から、10%を住民税から減税する制度。上限は所得税額の25%までで、対象となるNPOには認定や条例指定などの条件がある。3月中に寄付した分にもさかのぼって優遇する方針で、自民党など野党も前向きに応じる姿勢をみせている。

 また、中央共同募金会や日本赤十字社、各新聞社を通じて今回の震災の被害を受けた自治体へ配られる募金について、総務省は住民税の優遇割合を拡充する方針を決定。任意の自治体に寄付する「ふるさと納税」と同じ扱いにし、おおむね5千円を超える寄付金額分が、所得税と住民税から控除される。

 優遇を受けるには、いずれも振込書の控えや領収書、新聞社への寄付の場合は寄付した人の名前・金額を掲載した記事を保存しておき、来春に税務署へ確定申告する必要がある。
Lancers.jp
15:49  |  【 想う日本のこと 】  |  トラックバック(0)  |  コメント(0)
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