2017年04月 / 03月≪ 123456789101112131415161718192021222324252627282930≫05月

--.--.-- (--)

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

Lancers.jp
--:--  |  スポンサー広告

2015.06.06 (Sat)

『台湾教育基本法』の意義に関する再検討  -日本の占領期民主化との比較をふまえて-

1. 台湾の民主化と教育

台湾の民主化は、長期政権を樹立していた国民党・蒋経国政権期からその萌芽がすでに散見されていた。

1970年代の国際外交における力学変化をはじめとして、台澎金馬内における台湾ナショナリズム確立に向けた国民党外からの政治的発言の増大は、中華民国という定義をすでに揺るがしており、蒋経国は漸次「民主化」を進めていかなければならなかった。

80年代後半における国民党外に対する政治的権利の解放は、「台湾」という共同体の意義をさらに高め、彼の政権期に準備されたその民主化の動きは、遂に台湾本島出身者である李登輝による政権継承によって実現されていくことになるのである。

つまり、1972年の中華人民共和国を中心とする国際外交における政治力学の変化がもたらした台湾への内部改革要求は、その政治的必然性から、国民党に民主化の準備をすすめさせざるを得ず、そしてその改革を「台湾人」が助長・結実化させていく過程こそが、90年代における台湾の民主化の特徴であった。

台湾を代表する農業経済学者から統治者たる政治家の道を歩んだ李登輝は、その道程を表現する際に自らを「蒋経国学校の生徒」と称する。

動員戡乱時期臨時条項の廃止、立法院委員の改選、総統民選の実現は、歴史的には蒋経国の政治的事跡の延長にあったことを見逃してはならない。

しかしながら、歴史教科書『認識台湾』が示すように、李登輝政権のその独自性は、民主化を国民党内改革の作用として止めるのではなく、台澎金馬の住民に「台湾」の国民としての自己認識を再考させる精神革命にまで昇華させたことにあった。

総統民選はその改革の象徴であり、silent revolutionたる台湾の内部改革は、まさに中華民国の政体革命であったのではないだろうか。そのような観点にたてば、この民主化期の教育改革の内容に、「新しい国民」への変化を促す「台湾化」の理念の根本を見出さなければならない。

これまでその分析には、歴史教科書における変化を指摘する論調が主に注目されてきた。

だがしかし、民主化が台湾政治・政体の構造改革であったのならば、その教育の基本構造がどのように変化したのか、その行政法構造の変化に注目しなければ、台湾の民主化期の特徴を捉えることはできないだろう。


2. 台湾教育基本法の制定過程

蒋経国総統期までの国民党政権を考察すれば、その政権の特徴は戒厳令体制に集約されている。

中華民国憲法が護る人民の自由権は、その第22条の規定における中華民国の社会秩序の維持を侵害しない限り、戒厳令の許容範囲で保障された。

当然、その体制下では同21条で規定する教育権は一定の制約を受けるため、民主主義の発展に欠くべからざる学問の自由が保全されていたとは言いがたい。

そして、民主化が求められるなかで、この教育権や学問の自由などの教育に関する諸権利の擁護尊重を民主主義国家の基本法で整えたいとの要求が、政治改革運動として注目されていく。

台湾教育基本法の制定過程は、宋峻杰「台湾における教育権の憲法学的考察」(『北大法学研究科ジュニア・リサーチ・ジャーナル』13,p.135-169,2007年。)に詳しいが、その運動の要点をまとめれば、大学自治運動の発展から教育行政改革要求へと至り、教育基本法制定運動へと発展していった運動の歴史であった。

その中心は学生運動であった。

1986年の台湾大学内の学生運動「自由の愛」運動を契機とし、1993年には立法院で野党・民主進歩党によって教育基本法案が提出され、長い政治交渉により1999年に教育基本法が制定された。

1993年に民主進歩党所属の立法院委員・顔錦福によって提出された教育基本法案は、日本やドイツの教育基本法をその法案の原形とした。

この法案は立法院で審議が進むことはなかったが、この時期には市民による教育改革要求デモが社会的に大きな政治的圧力に成長しつつあった(410教育改革運動)。

政権与党である国民党もこの改革要求に応えざるを得ず、教育基本法制定の方向性を審議するために、日本の臨時教育審議会をモデルとして行政院教育改革審議委員会を設置している。

また、1996年には教育部内の教育研究委員会が教育基本法案の起草準備を開始し、その後、この法案を中心に立法院で議論が進められていくこととなった。

1999年6月23日、李登輝の名によって教育基本法が遂に公布され、10年におよぶ教育改革運動は民主化の時期と重なりながら、台湾の教育基本法体制を整えたのである。

憲法下における関連諸法の根拠となる最高法令として基本法体制を整備することによって、中華民国憲法の解釈では権利保障に懸念のある部分を補完する法的構造の設計は、台湾の民主化において重要な改革であったと考える。

以党治国をもって、中華民国ナショナリズムを台澎金馬の住民に徹底する国民党政権の政策は、教育においても同様であり、その統治に関する基本構造を転換せしめるという点において、台湾民主化過程における教育基本法の意義とは、つまり政体構造の変革以外の何ものでもなかったのではないだろうか。

しかし、それでは、その民主化の具体化として、なぜ日本の教育基本法が改革モデルのひとつとなったのか、その意味を次節で検討したい。


3.  次代の国家主権者を保護する「教育を受ける権利」

周知の通り、日本の戦後教育は、教育基本法を中心としてその戦後民主主義的教育観というものを教育の在り方の基底に置き、再構築した。

それは、日本国憲法第26条で保障された、個人のその能力に応じてひとしく教育を受ける権利が、教育の基本を確立するために制定された教育基本法においてすべての国民子女に解放されたものであったともといえよう。

この場合、法律主義をもってその意志を実現する主権を有する国民を育成するために、教育の機会均等を実現したといえる。

敗戦前においては男女別に教育機会の開放が制限されていたこともあり、この改革によって、戦後民主主義的平等の概念の形成が教育の側面においても求められたことが分かる。

だが決して教育の目的に民族的自主性というものを放棄したのではなく、「平和な国家及び社会の形成者」として独善的な個人主義に陥らずに自主的精神に満ちた日本人として、国家および国民各位は、次代の主権者たる子女を育成しなければならない、という義務を背負ったものである。

それと同時に、次代の主権者たる国民のひとりとして、積極的に社会形成に参加する義務感を、子女自ら主体的に求めるという観点の確認が、本来の日本国憲法と教育基本法との関係であったはずである。

このように日本の戦後教育の基本を確認すれば、公共性ある教育権を制限されていた台湾市民にとって、その民主化を実現する構造のモデルに、戦後改革でその開放を実現した日本の教育基本法をとりあげたことは、法理論の研究また形成上、自明のことであったと推察できる。

なぜならば、日本国憲法はその文書化・成立過程において多くの不法性・歪曲性を有しながらも、国民党による単独政権から多元価値を認める民主制への移行実現を求めた台湾の民主派にとってみれば、日本国憲法と教育基本法の連動化は、普遍的価値のある民主主義の解放という目的を実現するための世界史的前例であったからである。

だが、この普遍的教育価値と民族的自主性を両立させるために、1948年まで日本国内では教育勅語と教育基本法が共に並立する体制の存続が努められたことは、民主化とは別の課題として着目されなければならないことを付言しておく。

いずれにしても、教育によって形成される普遍的価値の定義を形成した主体は何であったのか。

また、教育的価値観の戦後の転換は、日本社会にとってそもそもどのような史的意味を有していたのか。

その考察を、次節では整理したい。


4.  新渡戸稲造と教育基本法

1947年に公布された旧教育基本法は、GHQ/SCAPが指示する占領政策の一環にあり、戦後民主主義を実現する教育諸法の「理念法」「根本法」として、戦後教育改革を担った田中耕太郎がその制定をリードした戦後教育の在り方に関する基本法であった。

旧教育基本法が掲げる教育の目的は「人格の完成」であるが、この理念形成に田中の師である新渡戸稲造の思想が影響していたことに注目されることは少ない。

しかし、旧教育基本法が公布されたその日、文部省学校教育局長であった日高第四郎は、その法の意義と新渡戸との関係を、『教育基本法とその日本的背景』と題する論文内で以下のように指摘している。

先生は、教育基本法の精神の「歴史的背景」をおのずから築き上げられた、その育ての親であったと、言えよう。というのは、この法律を恰も予測せるが如く、「透徹せる自律的人格主義に基く近代民主主義」を、思想的にも実践的にも情緒的にも生活に具現された(中略=引用者)先生の人格的思想的信仰的影響を身につけた次代の人々が、敗戦後の危機に際会して先生を忘れていたであろうか。(中略=引用者)こう見てくると基本法の構想に関して先生は直接にこそ語られなかったにしても、この先覚者は後輩又は弟子を通じて思想的に影響を及ぼされたと見られないであろうか。

日高が指摘するように、戦後教育改革をリードした人物たちの多くが新渡戸の指導を受け、思想的にもその影響を受けていたのならば、戦後教育改革の実相は、ただGHQ/SCAPの指示によりGHQ的民主主義を受容したのではなく、戦前社会から続く自由民主主義的改革を志向する思想風景の延長線上にあったと評価することもできるのではないだろか。

田中についても、多大な思想的影響を受けた一高時代の校長は新渡戸であり、また新渡戸が国連事務局次長時代には赴任地で寝食を共にしている。

占領期教育改革とはつまり、被占領者として占領政策の方針に従順するばかりでなく、日本人として日本国独自の戦後改革をGHQの占領政策に依拠することなく断行し、戦前より志向されていた福祉国家への改革構想を、戦後改革で実現しようとした主体性を評価できる側面を有するということである。

少なくとも、教育基本法の制定をはじめこの時期の教育行政改革に関しては、田中が吉田茂内閣の文部大臣として積極的に「日本人としての主体的な民主化改革」をリードしようとしたことは、田中が後年に執筆した『教育基本法の理論』(有斐閣,1961年)に見出すことができる。

田中はその中で、戦後教育改革の独自性を日本側が占領軍に対して発揮しようとしていたことを、以下のように述べているのである。

地方教育行政の一般行政よりの分離独立の必要に関しては、連合軍当局と見解を同じうしていたが、我々としては当初はブロック別な機構を考えていた。(中略=引用者)終戦直後文部省において考究したのは、明治初年の大学区制を採用して、地方教育行政の改革をはかることであった。

教育委員会制度への改革も、米国教育使節団の報告書を横にしながら、ブロック制を中心とする独自の制度構想として教育刷新委員会で田中の発案をもとに審議されていたのは、委員会議事録内に明確に記録されている。

したがって、教育基本法制定を実質的にすすめた文部大臣であった田中が、教育行政の改革に取り組むにあたり、占領軍の改革に依拠せずに、明治5年の学制を再現しようとした点にも注目しなければならない。

つまり、教育基本法の理念形成も含め、占領期の教育改革とは、日本の近代化過程で生成された自律的人格主義という教育の目的を敗戦という構造改革を実行しうる機会を活用し明確に教育行政に位置づけ、また新たな教育行政の設計構想は、日本人自身の自己改革で占領軍による戦後占領をリードしようとした「抵抗」の軌跡であったと、私は考えるのである。


5.  教育からみたアジアの未来を開く日台関係

旧来の統治構造を変革し、教育の根本をもって住民・市民・国民の民主主義的権利(教育を受ける権利や学問の自由)を擁護するという目的のために、教育に関する基本法を教育諸法の頂点に位置する理念法として制定することを目的とするならば、台湾の民主化も日本の戦後民主化もその行政法構造の設計目的は同じである。

これは戦後占領期の沖縄地方でも同様であったし、日本の戦前からにおける教育に関する自由権の獲得という観点を俯瞰し直せば、台湾と日本両国の「民主化」とはつまり、旧来構造が招来した制度疲労という社会的硬直化の是正であり、国家行政の構造改革を終局的にはその目的としていたのである。

また、台湾においても日本においても、その教育基本法の整備が志向される思想背景には、中央政府による硬直的な教育行政を転換するために、国家の主権を有する国民にとって自律的な教育権を規定しようとする自由主義的な改革思潮が認められたのである。

民主化の次に求められるのは、その民主主義国家を構成する自律的な国民としてのアイデンティティーを定義・確立することにあるだろう。

それは、現在社会・現在世代の社会的要求を正確に明示しうる憲法の整備にも求めえるし、また少なくとも「自己はいかなる国民として独立していこうとするのか」という問いを常に社会に責任ある主体的な個人として発することができる国民を育成することであろう。

民主化を苦難の末に迎えた日本と台湾には、共に手をとり、民主主義的成熟を迎えようとするアジア諸国に対してその苦悩の経験を伝えていく義務があるのではないだろうか。


梅本大介 


Lancers.jp
スポンサーサイト
20:21  |  【 想う台湾のこと 】  |  トラックバック(0)  |  コメント(1)

2015.06.06 (Sat)

【 明日! 】 日台交流お茶会 – みんなで楽しくおしゃべりしましょ 【参加自由・オフ会】

6月7日(日)13時から、クラッシィタワー東中野のラウンジで、「台湾が好き!日本が好き!」という方々みんなで集まってオフ会を開きます。

日時:平成27年6月7日(日) 13時~

場所:東京都中野区東中野4-5-10 クラッシータワー東中野
(東中野駅西口前にあるUFJの裏にあるスーパーの真横です)

( 13時前には、1階マンション入り口でスタッフが待機しています。途中参加の方は、ページ最下部の連絡先でご連絡ください。担当者の携帯メールに配信されますので。 )

会費: 500円(学生)   1000円(社会人)

まだ台湾に行ったことのない日本人のヒトも、日本に来たばかりでまだ日本の生活に不安があると心配している台湾のヒトも、気軽にご参加ください☆

日台交流の懇親会のキックオフをひらきましょう!という企画です。

みんなでお食事しながら、おしゃべりするだけ☆

できるだけ学生さんに多く参加していただきたいので、ぜひぜひお知り合いに学生さんがおられましたら、お声かけいただければうれしく思います!
(台湾人のスタッフも、日本人のスタッフもいますから、言葉も安心ですよ)

参加して満足していただけるように、食べ物や飲み物や会場費などは、開催スタッフがご用意・ご負担いたしますので、ご安心ください

お問い合わせ:事前に参加人数がわかると、食べ物や飲み物を適切な量をご用意できるので、参加していただける方が事前にご連絡くださると、大変助かります(^◇^) 

参加希望の方は、梅本まで

umemoto☆office-on-your-mark.com
(☆のところは、@で。)
Lancers.jp
20:01  |  【 想う修学院のこと 】  |  トラックバック(0)  |  コメント(0)

2015.06.05 (Fri)

【新党設立】 どのような旗を掲げるのか。今こそ新党を。

維新の党・松野頼久 代表
民主と維新が単に合併するのでなく、その他の勢力も一つの旗の下に集まる形が好ましい


与党にとっても自主憲法制定の足かがりをつかむため、

野党にとっても生き残りをかけて、

選挙対策のような「吸収合併」や「新党設立」の話がまたぞろと出てきた。

国民にとっては、戦後70年、とくに昨今において特段驚きもしない、政治家たちの動きに違いない。

国民の失望をくりかえし招くこのような政治家たちの動きはなぜおさまらないのだろうか?

いや、いまこの日記を書いている僕でも、「新党」を創るチャンスはいまだと思っている。

では、なんのために?

やはり、与党が憲法改正を視野に、そして橋本維新がその狙いの実現を頓挫させてしまったこのときに、民主党が独自の政策価値を国民の前に提示できないでいるときに、すべての政党や政治家は、「国のあり方」を問う選挙を提示するべきなのだ。

国民は、社会リーダーである政治家が、いったい自分たちをどのような未来に連れて行ってくれるのかを待っている。

国民は本当は政治家がリーダーシップを発揮する姿を待ち望んでいるのだ。
誰もがそうであると僕は信じている。

その未来図こそが、政治家があつまるべき「旗」なのではないだろうか。

民主党と維新はなんのために、他の野党も含めて、どのような「旗」を掲げて集まろうとするのか。

そのような政策の一致も、思想の一致もないなかで、「強い野党を創る」ことができるとの考えは盲信のほどがひどいというものだ。

だからこそ、逆説として指摘するのだけれども、

今こそ「新党」を創る覚悟で、各政治家はなぜ自分がバッジをつけたのか、政治家を志したのかを、その胸に問うてはどうか。

ここで提案をしてみたい。

次の国政選挙は「衆参ダブル選挙」をぜひしてもらいたい。

その前提で、現在の憲法を改正するための要件が定められている【96条】を

緩和するか」「護るか

もうこのテーマだけで、国政選挙を戦ってはどうだろうか。

たしかに、国家の指導者を選ぶ国政選挙においては、国民生活を護っていく経済政策の議論も必要だろう、国民の安全を保障する防衛政策の議論も必要だろう。

他にもまだまだ多くの課題があるのは確かだ。

しかし、候補者の方々の政見原稿や政策資料、政策広報を書いていく作業に携わってきた者としては、

官僚が用意した行政資料をもとに総花的に公約を考えたり、

票田の獲得・開拓を想定して公約を考えすぎてしまい、結局、諸政策の総合性が矛盾きたしていることに気づかないふりをしていたり、

選挙区事情にあわせて、自身が所属する政党の政権公約を意図的に自己解釈して有権者に訴えるようなテクニックに長じてくるような、

もうそういう選挙をやっているような余裕が、いまの日本にはあるのだろうか?と思うのだ。

どのような政策にせよ、その根本には、現在は憲法の規制というものがある。

ならば、この憲法に真正面からぶつからなくて、政治家たる意義はどこに存在するのだろうか?

憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか

と叫んだ誰かがいたが、

いまや、国家の構造を問い直す分岐点にあるのではないだろうか。

その分岐点にあって、方向を指し示すのが政治家の仕事なのではないだろうか。

護憲派は現在の日本の社会体制を維持していくという思想なのだからどのような政党であれそのままで構わない。

改憲派こそ、「新党」をつくってみてはどうだろうか。

そして、国民投票を経て96条改正がなれば「新党を解党します!」と国民に公約するのだ。

その覚悟があってこそ、憲法にぶつかっていくという姿勢が本物とみられるのではないだろうか。

僕であれば、そうとらえる。

保守政権与党である自由民主党は、自主憲法制定を党是として結党された政党であるはずだ。

ならば、総理、

「自主憲法制定が実現したのちは、自由民主党は解党します」

と国民の前に宣言されてはどうでしょうか。

国民は総理と自由民主党とともに、憲法にぶつかっていくのではないでしょうか。

憲法の議論を乗り越えることができなくて、なぜその先の新しい社会の姿を具体的に政策としてつくっていくことができようか。

まさに、掲げるべきはそういう「旗」であるべきなのだ。



梅本大介 



-・-・-< 以下引用 >-・-・-

毎日新聞 6月4日(木)22時7分配信
<野党再編>構想活発化 「民維合併」や「野党新党」浮上

 来夏の参院選が約1年後に迫る中、野党再編を模索する動きが活発化してきた。民主、維新両党内で「民維両党などによる統一会派」「民維合併」「野党新党」構想などが浮上している。昨年末の衆院選で自民1強により民主、維新両党が伸び悩み、社民、生活両党など少数政党が大敗した反省が背景にある。

 「民主と維新が単に合併するのでなく、その他の勢力も一つの旗の下に集まる形が好ましい」。維新の党の松野頼久代表は4日、東京都内で記者団に語った。民主、維新両党などが解散した上で他の野党勢力も結集し「野党新党」を結成する持論を改めて強調した。

 野党再編構想が具体化したのは先月の大阪都構想の住民投票後、維新代表に就任した松野氏が「年内に衆院で100人規模の野党勢力結集」を呼びかけたのがきっかけだ。松野氏は就任以来、民主党の岡田克也代表のほか、生活の党の小沢一郎共同代表、旧みんなの党代表だった浅尾慶一郎衆院議員ら各党党首級と相次いで会合を開催。関係者によると、新党構想を中心に野党再編について活発に協議しているという。

 一方、岡田氏は先月下旬、社民党の吉田忠智党首、生活の党の小沢氏とも立て続けに会談し、野党連携に向け協力する考えを確認した。

 新党構想は、今年9月の岩手県知事選や10月に想定される参院岩手選挙区補選での民主、維新、生活などの連携を経て、臨時国会から年末までに各党が解散し、新党を結成する「対等合併」案。「インパクトも強く、強い野党への期待感が出てくる」(民主関係者)とのメリットがある。

 一方で、民主のリベラル派や維新の大阪系など新党構想に反対する勢力が各党を引き継ごうとして党内分裂を招く恐れもある。このため、民主を存続させ、他党からの吸収合併に持ち込む合併構想も民主執行部を中心に有力だ。また、「今国会での共闘を受け、臨時国会で統一会派を結成」(民主中堅議員)する構想も浮上しており、再編への発展を狙う。

 ただ、いずれの案も実現には各党内の反発が予想される上、構想実現に汗をかくまとめ役は見当たらない。民主、維新両党の一部議員からは小沢氏の仲介を期待する声も上がっている。【村尾哲、福岡静哉】
Lancers.jp

テーマ : 政治・経済・社会問題なんでも - ジャンル : 政治・経済

16:33  |  【 想う日本のこと 】  |  トラックバック(0)  |  コメント(0)

2013.09.17 (Tue)

国民主義者による日本国憲法否定論。

「デモクラシー」の時代と言われる大正時代、その時代背景もあって急進的デモクラットのひとりであった植原悦二郎は、国家の統治を左右する主権は、一般国民にあるとする「国民主権主義」を唱えた。「主権在民」を唱え、大正デモクラシーの雄であった吉野作造と憲法論を争った植原は、民主的な理論の代表者としてその名をはせていた。

植原によれば、国家主権とは国民意志の総合であって、天皇の統治権とは別個なものであると捉えていた。帝国憲法第1条によって、天皇大権は明確に制限されており、最高決定権力というようなイメージの「主権」とは根本的に異なると主張した。そのような植原にすれば、国民主権を第1にかかげ、大日本帝国憲法体制から全く転回されるようなGHQ民政局による日本国憲法は、諸手をあげて歓迎できるものであったはずである。植原は、日本国憲法制定時には、国務大臣として副署もしている。

しかし、植原は日本国憲法を日本が受け入れることに抵抗したひとりであった。それは、なぜか。植原によれば、日本国憲法の欠点は、①軍備を有しない国は独立国家ではなく、②独立国家でなければ国際社会でその責任を十分に全うしえず、③国会の機能においては参議院と衆議院の意義が重複しており、④国家全体の機能的配分を考えても地方自治体に財源が伴っていないことが課題として考えられ、⑤そもそもこの日本国憲法では改正を要しても実現不可能である、というものであった。

では、植原は日本国憲法の施行そのものにも反対したのであろうか。いや、植原は日本国憲法の存在は、結局、受け入れるしかない、という結論に至っている。その理由を、植原は憲法調査会第8回総会においてこのように語っている。

とにかく帝国憲法の73条の修正の規定をもってそうして議会に出して、それを陛下の詔書によって出し、そうして貴衆両院が絶対多数をもって決定した。こうなれば与えられたものでも日本国民の憲法と承知いたさなければならない。 (『憲法調査会第8回総会議事録』)

植原も、日本国憲法がGHQ民政局から与えられた・押しつけられたものであるとの認識であった。植原とおなじように、戦時中、軍部の大陸政策を批判した「反軍演説」で国会議員を除名された斉藤隆夫も、天皇機関説によって大正デモクラシーの一大人物であった美濃部達吉なども、日本国憲法の受け入れに反対した。

植原が指摘するように、日本国憲法は既にその公布経緯から、如何に国辱の憲法であろうとも、欽定憲法であり、我々日本人の憲法であろう。ならば、その存在を否定することはできない。しかし、この憲法は支配された者に与えられた憲法であるという以上に、植原が指摘するように多くの欠点を有している憲法でもある。だからこそ、日本国憲法は全面改正にせよ、部分改正にせよ、国民皆の議論をもって、改正作業を進めねばならないのである。日本国憲法破棄という理論を主唱する方もおられるが、僕にすれば、全面改正に拠ればその目的は政治的に達し得ると考えている。それよりも、新憲法草案を多くの政党や識者が出すなか、それらほとんどがGHQ民政局憲法(日本国憲法)と体系や文言の構造に依拠している点に疑問を抱かざるをえない。そのような政治哲学では、いつまでたっても、戦後レジームを脱することができないと考えるが、あなたはどのようにお考えになるだろうか。

Lancers.jp

テーマ : 憲法改正論議 - ジャンル : 政治・経済

01:40  |  【 想う日本のこと 】  |  トラックバック(0)  |  コメント(2)

2013.08.17 (Sat)

「今に見ていろ」と気概を持っていた日本国憲法制定時の日本人たち。

敗戦から幾十年たった今年の盆も、「敗戦」とはなんであったかを考えようと、一冊の本を手にとった。






なぜ白洲次郎なのか。
吉田茂の側近として終戦連絡事務局次長という要職にあって、GHQの占領政策、日本国憲法制定に立ち会った人物である。日本の戦後構造を創った人物と評価してもしすぎることはない。
彼がどのように戦後を創ろうとしていたのか、日本をどのようにGHQから護ろうとしていたのか、改めて確認したいと思ったのだ。


しかし、ひとまず、白洲の話を横に置く。


そもそも、日本国憲法は、占領軍であるGHQの手によって作られ、それがわずか9日間のうちに終わったことを知っている日本人も現在ではそう多くはない。

この日本国憲法案の作戦名はGHQ内部で「真珠の首飾り」と言われた。日本の民主化を担当したGHQ民政局の責任者であったホイットニーとケーディスの指揮のもと、同局内から選ばれた25名のメンバーが日本国憲法を日本人に代わって創っていく作戦であった。

しかし、そのメンバーのなかには、弁護士資格を持つ者が3名はいたが、誰一人憲法の専門家はいなかった。当時のメンバー自身も自分達が日本国憲法を創ることに戸惑いがあったようである。西修の『ドキュメント日本国憲法』では、以下のような発言をみることもできる。


ミルトン・J・エスマン陸軍中尉
「とても興奮しました。しかし、同時に私は、このようなことはとても不幸なことだと思いました。なぜなら、外国人によって起草された憲法は正当性を持たないと思ったからです。私は、民主主義を理解している日本人を何人か知っており、彼らに自国の憲法を作らせるべきだと思いました。そして、そのことを上司に述べたのですが、採用されませんでした」

O・ホージ陸軍中佐
「興奮しましたが、私には憲法を作る能力も知識もなかったので不安でした」


この日本国憲法制定の作業はGHQ内部でも極秘事項であり、ごく一部の者しか知らない作業ではあったが、後にこの日本国憲法制定に関する素人性に、GHQ内部からも批判があがっている。たとえば、このメンバーのなかで女性の人権に関する規定を担当したベアテ・シロタという23歳の女性(「憲法24条の母」と言われている)に対して、参謀第2部のウィロビー少将は、以下のように批判している。(もちろん、民政局に対する組織的対立の要素もあるだろう、この批判には)


ウィロビー少将
「民政局がいかに愚劣だったか、一例を挙げよう。民政局に、日本で生れた一人の若い米人女性職員がいた。彼女は戦前、日本警察と隣組に迫害を受けて、それらを憎んでいた。この娘に、民政局は隣組に関する報告書を書かせたのである。彼女は当然、隣組は解放すべきだと書いた。まったくバカげた報告書であった」(週刊新潮編集部『マッカーサーの日本』)


つまり、メンバーの選定になにも客観性がないと批判しているのである。

日本側もこのGHQ民政局のメンバーが作成した日本国憲法案に対して、多大な抵抗の努力をみせているが、結局のところ、GHQ民政局に押し切られている部分が大きい。それも、占領された側の悲哀というものだろう。事前にGHQが公職追放令を発し、GHQに抵抗できる大物の政治家やリーダーたちが数少なくなっていた、ことも日本側の力の弱さを示すものだった。

最終案が完成した際、憲法改正担当国務大臣であった松本丞治は、皇居に参内して、昭和天皇に開口一番、

「敗北しました」

と述べている。昭和天皇は日本国憲法案に抵抗できないことを了承しつつも、①皇室典範に関する天皇の留保権と、②堂上華族の存続は模索できないか、と要望をされていたことは現在分かっているが、GHQの占領の前に日本政府がその再交渉を行う余力は残っていなかった。

日本国憲法制定に関する日本側の調整メンバーのひとりであった白洲は、日本国憲法が生れたその日、以下のように書き残している。

「興奮絶頂ニ達シ正午頃ヨリ総司令部モヤツト鎮マリ、助カルコト甚ダシ、斯ノ如クシテ、コノ敗戦最露出ノ憲法案ハ生ル。「今に見ていろ」ト云フ気持抑ヘ切レス。ヒソカニ涙ス」(外務省文書「白洲文書」)


では、同じく大戦に敗れ、占領されたドイツではどうであったか。
アメリカが占領した西ドイツの戦後の統治に関する基本は、「ボン基本法」と呼ばれる法律であった。決してそれは、「憲法」と位置付けられなかったのである。
その第146条には「ドイツ国民が自由な決断で議決した憲法が施行される日に、その効力を失う」と定められていた。
ドイツは東西統一後も新たな憲法を制定していないものの、占領構造の性格が決定的に違っていたことに、我々は目を瞑ることができるだろうか。


日本国憲法を新しく創ることは、歴史的使命なのだと信じている。
それは「今に見ていろ」という日本人の誇りでなくてはならない。
僕はそう信じている。

Lancers.jp
01:33  |  【 こんな本を読みました 】  |  トラックバック(0)  |  コメント(0)

2013.04.10 (Wed)

縦割り行政が国家を滅亡させる -講和交渉、昭和天皇のリーダーシップ-

第2次世界大戦においてなぜ日本は敗戦を迎えることになったのか。
なぜ日本は被害を増大させることになったのか。
その原因を求め、二度と同じような失敗を繰り返さないようにつとめることに、歴史を学ぶ意義があります。それは決して「個人に対する人格攻撃・批判」ではなく、「構造の歪みに対する批判・修正」であるべきです。
第二次世界大戦における日本の敗戦は、政治や行政だけでなく、現代のあらゆる組織構造の課題を改善することにつながる課題を抱えているのです。

日本の敗戦の決定打となったのは、ソ連の対日参戦でした。
日本と中立条約を結んでいたソ連が突然侵攻してきたことにより、交戦能力を完全に維持することができなくなったのです。このソ連の対日参戦を読むことのできなかったことは、日本の一方的な外交的敗北だとこれまで言われていました。

しかし、事実はそうではなかったのです。
8月9日のソ連侵攻は、2月のヤルタ会談で米国・英国・ソ連の間で密約として決まっていた連合国による戦争密約でしたが、実はこの密談の内容をヨーロッパ各地にいた日本の駐在武官たちは既に察知して、日本本国に情報を伝えていたのです。

日本の在外武官達がすでにヤルタ会談の内容を把握していたことを、連合国側も認識していたようです。イギリスの国立公文書館に所蔵されている『最高機密書類 ULTRA』の中にこの日本の駐在武官たちが日本本国に送っていた暗号電報を英国が解読していた記録が残っています。

昭和20年5月24日のスイス・ベルン海軍武官電ではヤルタ会談でソ連は対日参戦を約束したことを本国に報告しています。その後も、同じソ連の動向を伝える電報は続いています。6月8日のポルトガル・リスボン陸軍武官電、6月11日のスイス・ベルン海軍武官電などがつづきます。7月2日のポルトガル・リスボン陸軍武官電の冒頭は以下のように書かれています。

Russia’s entry into the war against Japan is now a question of the next few weeks ,…
(ソ連の参戦はあと数週間のうち)

8月9日までソ連の対日参戦を知らなかったとされる日本に、実は5月の段階からソ連の動向が情報として入っていたという事実は、何を意味するのでしょうか。

戦時中、各省の情報部は独立したままでした。それぞれの情報部が得た情報を中央政府全体で共有する構造はありませんでした。まさに「縦割り行政」そのものです。日清・日露戦争の頃は、元老を中心とするリーダーたちが伊藤博文や桂太郎を支えるべく、それぞれの利害を超えて、「情報共有」の意思をしっかりと有していました。だからこそ、勝利をつかみとることもできたと言えます。だからといって、第2次世界大戦時の日本のリーダーたちが縦割り行政の弊害を認識していなかったというわけではありません。この時期も、そのような構築に向けての努力はなされようとしていたのです。

5月11日、この際、縦割り行政を廃止するために、戦争遂行のトップ・リーダーたちが胸襟を開いて今後の状況を打開しようと宮中で会議が開かれています。出席したのは、鈴木貫太郎内閣総理大臣、東郷茂徳外務大臣、阿南惟幾陸軍大臣、米内光政海軍大臣、梅津美治郎参謀総長、及川古志郎軍令部総長の6人でした。この6人で戦争の行く末の道筋をつけたいという意志表示であったのでしょう。

この会議で、東郷は国力のあるうちに早期講和を交渉しようと提言します。この東郷の意見に対して、陸海軍のリーダーたちは「一撃後講和」を唱えます。地の利がある本土決戦で連合軍に「最後の1勝」をしたあと、講和をしようという意見です。それが、少しでも有利な条件で講和に持ち込むための戦略であると彼らは考えていたのです。

両者の意見には決定的な戦略眼の違いがありますが、共通していたのは、連合軍との講和交渉の仲介を、ソ連に願いたい、というものでした。当時、外務省政務局長をつとめていた安東義良〔※1〕は、東郷と米内、梅津の3人は日清戦争以前の状態に日本を戻すことも決意し、少なくとも満洲から日本の権益のすべてを引き上げることを構想していたと証言しています。ソ連に与えるべきものはすべて与えてでも講和に持ち込むという意志の強さをリーダーたちは持っていたと評価してよいでしょう。しかし、そのような講和交渉への強い意志を有しながら、その後の会議も含めて、ソ連の対日参戦という情報がトップリーダーたちの会議で8月9日まであがらず、また認識されなかったのでしょうか。

この場合、考えられる可能性は3つあります。

① 駐在武官たちの情報が陸海軍のトップリーダーたちに達しなかった。
② 陸海軍内部(もしくはトップリーダーたちに)で駐在武官たちの情報が無視された。
③ 陸海軍のトップリーダーたちは「一撃後講和」を実現するために対日参戦の情報を秘匿し、外務省や内閣に伝えなかった。


少なくとも情報が陸海軍のトップリーダーたちに伝わって入れば、彼らの「戦争継続」への認識が変わっていたことは間違いないと考えます。なぜなら、すでに彼らは日本を救うには戦争を継続せずに講和するしかないと認識していたからです。陸軍省軍務課長をしていた永井八津次も、阿南の本意は早期講和であったと証言しています。

陸軍内部で終戦工作を担当していた松谷誠大佐が阿南に降伏プランを提示しに行った時に、阿南はこのように返答しています。

「私も大体君の意見の通りだ。君らは上の者の意見の見通しは甘すぎると言う。だが我らが心に思ったことを口に表せば影響は大きい。私はペリーの時の下田役人のように無様に慌てたくはないのだ。準備は周到に堂々と進めねばならんのだ」

松谷とともに終戦工作を担当していた海軍の高木惣吉少将は、官僚的な発言を繰り返し、講和への決定を遅らせるトップリーダーたちを戦後に以下のように批判しました。

「非常にそれは阿南さんばかりじゃない。日本の政治家に対して私が訴えたいのは、腹と公式の会議における発言とそういう表裏が違っていいものかと。一体、その国家の運命を背負った人が、責任ある人が、自分の腹と違ったことを公式のところで発言して、もし間違って自分の腹と違った決定になったらどうするのか。・・・職責がこうだとかああだとか言われるんですよ。それはごもっともなんですよ。だけど平時にはそれでいい。だけど、まさに祖国が滅びるかどうかというような、そういう非常事態に臨んでですね、平時の公的な解釈論をやっている状況じゃないじゃないかと。自分は憎まれ者になってもですよ、あるいは平時の慣習を踏み破ってもですね、この際もう少しおやりになってもいいじゃないかというのが、僕らの考えだった」

阿南たちが早期講和を口に出せなったのはなぜでしょうか。その理由は2つあるように思えます。

① 國體護持を条件に絶対に天皇を護らなければならないという使命。
② 軍内部に内在する主戦派たちを一掃することのできない、長年の軍内部の派閥抗争。

阿南が8月15日に自決した背景を思えば、彼もまた官僚制の硬直に悩み苦しみながら、自らの使命を果たそうとした人物であつたと考えますが、高木が指摘するように、二律背反性が官僚制の硬直のなかで見出されることも事実だと考えます。例えば、陸海軍が講和交渉の前提と考えていた「一撃後講和」を実現するために、「本土決戦」の作戦を立案していた参謀本部作戦部長の宮崎周一は、本土決戦で勝利をあげることが一撃後講和のために必要と訴えましたが、本土決戦は極めて困難だと分かっていたと戦後に証言しています。しかし、作戦部長の立場としては、そんなことは言えないし、作戦を断念することもできなかったと。まさに、このような硬直的な組織状況が日本を敗戦に追い込んだ「日本病」であったと考えます。

しかし、それは軍部のみの問題であったわけではありません。
外交を担当していた外務省も同様であったと考えます。

外務省は当初から陸海軍の情報部の能力を信用していませんでした。外交の専門集団である自分たちが、軍部の情報部に先んじられることはない、国際状況の現実をもっとも現実的に分析できるのは、自分たち外務省であると、軍部の能力を過小評価していました。

その過信が日本の敗戦を決定的にさせる事件が6月7日に起こります。

海軍のもとに、スイスに駐在していた海軍武官が米国・ホワイトハウスと講和に関して直接交渉できる糸口をつかめた、との情報が入ってきます。米国が要求する「無条件降伏」の定義が未だ政府内部でも厳密なものになっておらず、今なら講和交渉に入れる、との報告だったのです。高木はこの情報を信用し、米国と講和交渉に入るべきだと米内に進言します。しかし、米内はこの報告を信じませんでした。米国が日本と現在の状況で講和交渉に応じることは信じられず、この情報は日本の陸軍と海軍を分裂させる謀略であると評価しました。米内は、この情報から海軍は手を引き、外務省に処置を任せるべきと高木に指示を出しました。この時の米国の交渉相手は、後のCIA長官となる戦略事務局のアレン・ダレスでした。彼は、ソ連への警戒感から、戦後に米国がソ連と対抗するためには、日本に国力を残さなければならないと考えていました。そして、日本に講和させるためには、天皇制を残すことを米国が保障する条件をつけて講和交渉に応じなければならない、と理解していたのです。海軍から情報を受け継いだ外務省は、このスイスルートを信用できない・意味ないものと一蹴します。日本の早期講和のチャンスは、縦割り行政による省庁間の意識対立から潰えてしまったのです。

このような組織の硬直化からまったく事態を前進させることのできない状況を打開することができたのは、昭和天皇の「聖断」でした。本来は、中央政府組織のリーダーたちが決定しなければならない政治的決定を、政治の外にある天皇が決断しなくては、「決めることができない」「責任をとることができない」組織にこの当時の政府能力は劣化していたのです。

昭和天皇による第2次世界大戦時における「聖断」は8月聖断が有名ですが、実は6月22日に昭和天皇が先の中央政府のトップリーダー6人を招集した御前会議が重要な「聖断」を示した日でなかったのかと考えます。

6月11日、大陸視察から帰国した梅津は、その視察結果から得た知見を陸軍内部に伝える前に、昭和天皇に奏上しました。昭和天皇の側近である内大臣木戸幸一によれば、梅津は昭和天皇に対し「支那派遣軍はようやく一大会戦に耐える兵と装備を残すのみです。以後戦闘は不可能と御承知願います」と奏上したと言われています。昭和天皇はこの奏上を受け、22日の御前会議に臨むことになるわけです。

昭和天皇はこの戦局の悪化を考えれば、国策の転換をはかるべきではないか、と問いかけます。米内と東郷は、ソ連に仲介交渉を頼みたいと答えます。しかし、梅津は、内外に影響が大きいので、対ソ交渉は慎重にすべきと意見します。11日にこれ以上の戦争は不可能と奏上しながら、早期講和の話に乗らないばかりでなく、軍の惨状を他のリーダーたちに伝えないのです。昭和天皇は11日に奏上した内容を他の者にも伝えよと暗に梅津に詰め寄るのですが、梅津は陸軍参謀総長としての立場の発言から抜け出すことができません。講和を進めることに同意しながら早期の講和にしぶる梅津に「(講和交渉は)よもや一撃講和の後ではあるまいね?」と問い質します。この昭和天皇の発言によって、日本の政治選択から「一撃後講和」は排除されました。昭和天皇は、中央政府のトップリーダーたちに早期講和を促したのです。しかし、結局、トップリーダーたちは「最後の決断」を下すことができず、8月聖断をまつことになるのです・・・。

この対ソ外交をみたとき、当時の日本中央政府は、政府組織内部やトップリーダーたちの間で、情報共有と政策の統合化が課題となっていたことが分かります。最後には昭和天皇の聖断に頼らなければならない、という「決められない」組織構造が、日本の敗戦の最大原因であつたと考えます。

① 決定を下す責任者がいない。
② 会議が踊るばかり。
③ 組織間に情報共有がされない。

このような組織の硬直化は、敗戦時の日本政府だけではありません。
東日本大震災における復興政策などはその代表例でしょうし、現在のあらゆる組織でも指摘することができるでしょう。
そうであれば、私たちが果たすべき組織改革・刷新のポイントや課題は明確なはずではないでしょうか。


※1 「敗戦」という国民的ショックをやわらげるために、「終戦」という言葉を考案したのは、この安東である。

Lancers.jp

テーマ : 政治・経済・社会問題なんでも - ジャンル : 政治・経済

03:07  |  【 想う日本のこと 】  |  トラックバック(0)  |  コメント(0)

2013.04.09 (Tue)

己に徹して人のために生きよう -原爆復興・広島、濱井信三のリーダーシップ-

広島平和記念都市建設法。
戦後憲法下ではじめて成立した地方自治特別法です。
1949年5月に国会でこの法律が成立したあと、憲法95条〔※1〕の規定にもとづき広島市民の住民投票による賛成多数によって公布施行されました。92%の賛成であったそうです。
条文は7条にわたります。


1.この法律は、恒久の平和を誠実に実現しようとする理想の象徴として、広島市を平和記念都市として建設することを目的とする。

2.広島平和記念都市を建設する特別都市計画(以下平和記念都市建設計画という。)は、都市計画法(昭和四十三年法律第百号)第四条一項〔都市計画の定義〕に定める都市計画の外、恒久の平和を記念すべき施設その他平和記念都市としてふさわしい文化的施設の計画を含むものとする。
(2)広島平和記念都市を建設する特別都市計画事業(以下平和記念都市建設事業という。)は、平和記念都市建設計画を実施するものとする。

3.国及び地方公共団体の関係諸機関は、平和記念都市建設事業が、第一条〔目的〕の目的にてらし重要な意義をもつことを考え、その事業の促進と完成とにできる限り援助を与えなければならない。

4.国は、平和記念都市建設事業の用に供するために必要があると認める場合においては、国有財産法(昭和二十三年法律第七十三号)第二十八条〔譲与〕の規定にかかわらず、その事業の執行に要する費用を負担する公共団体に対し、普通財産を譲与することができる。

5.平和記念都市建設事業の執行者は、その事業がすみやかに完成するように努め、少なくとも六箇月ごとに、建設大臣にその進捗状況を報告しなければならない。

6.広島市の市長は、その住民の協力及び関係諸機関の援助により、広島平和記念都市を完成することについて、不断の活動をしなければならない。

7.平和記念都市建設計画及び平和記念都市建設事業については、この法律に特別の定がある場合を除く外、都市計画法の適用があるものとする。


この法律の重要なところは、(1)広島を「戦後平和」の象徴都市として定義したこと、(2)中央政府による戦後復興政策の責任性を明確にしたこと、(3)廃墟と化した広島の復興を可及的速やかに進展させるための復興財源を確保したこと、の3点でした。この後、「長崎国際文化都市建設法」、「首都建設法」の成立へと続いていきます。
この法律の国会提出にあたっては、参議院議事部長をつとめていた寺光忠をはじめ戦後の行政法体系を整えた田中二郎や飯沼一省が尽力しました。
寺光は、自身の著書の中でこのように述べています。

「かくして、わたくしは思う。『足を一たび広島市にふみこめば、その一木一草が恒久の平和を象徴して立っている。石ころの一つ一つまでもが、世界平和を象徴してころがっている。平和都市の名にふさわしい国際平和の香気が、全ヒロシマの空にみちみちている。』精神的にいっても物質的にみてもそういうふうな平和郷が、ここに具現されることにならなければならないのである。いつの日にか。」(『ヒロシマ平和都市法』より)

そして、この法律の成立とともに広島の復興を導いた人物として忘れてならないのは、戦後初期に広島市長をつとめた濱井信三です。「平和」を希求する濱井の信念が、現在の広島を形づくったことは疑いようがありません。

敗戦直後の混乱期ですから、中央政府も全国各地の都市の復興を充分な形で支援する財政的余裕はありません。原爆を投下された広島に対しても同様です。そのような中央政府・地方政府ともに財政的制約がある中、市長として中央への陳情をあきらめず、ついに復興財源を確保する広島復興法を成立に導いたのです。濱井の広島復興への信念や構想する政策は、時に広島の既得権益者たちと衝突することもありました。そのような時にも彼は決して「広島復興」への夢をあきらめず、対立者と粘り強く「対話」を重ね、自身の復興政策への理解を得ようとつとめました。濱井の身に危険が及びそうになっても、彼には広島復興への想いを捨てることができなかったのです。濱井の市長就任時の市政方針演説は、(1)市政の民主化、(2)市民生活の安定化、(3)復興事業の速やかな軌道化がその主要な内容でした。原爆の被害、そして戦時経済体制による国民生活の疲弊から回復するには、速やかなる復興政策の実施が何よりも必要であったのです。しかし、国家的財政危機から広島のみを優先的に復興させる財政補助を中央政府が拠出することができない状況が横たわっていることも厳然たる現実でした。そのような政治的閉そく状況を打開するために、広島を「戦後平和」の象徴都市として定義し、広島の復興を通して世界平和を追求しようとする濱井の信念は、敗戦直後という時代が求めた必要なリーダーシップであったのです。それまで広島の復興に注力できていなかった中央政府も、ついに濱井の信念にGHQの国会担当であったジャスティン・ウィリアムズや、吉田茂が賛同を送るに至り、濱井が念願としていた復興財源の確保を整備することになったのです。濱井が遺した手帳の最後のページには、このような言葉が書かれていたといいます。

「己に徹して人のために生きよう」

広島平和記念都市建設法には、東日本大震災の被害から復興が進まない東北の現状を打開するためのヒントがあるように考えます。

東北という地域の文化や歴史を通して、「自然災害と共に生きる日本人」「復興をくりかえして強くなる日本人」の象徴地域として東北を復興に導くことなしには、東北の復興政策は進まないのではないでしょうか。なぜ復興するのか、どのように復興するのか、そのためには各県民・東北の民、日本人全員が一致・一体となって「復興への信念」を形創り、政策に反映させていかなければなりません。

復興とは「国づくり」そのものだと考えます。


※1 一の地方公共団体のみに適用される特別法は、法律の定めるところにより、その地方公共団体の住民の投票においてその過半数の同意を得なければ、国会は、これを制定することができない。

〔参考URL〕
・広島市「広島平和記念都市建設法」紹介ページ
http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/0000000000000/1122608826994/
・中国新聞「広島平和記念都市建設法」条文ページ
http://www.chugoku-np.co.jp/abom/99abom/kiroku/mikan/heiwatoshi.html

Lancers.jp

テーマ : 政治・経済・社会問題なんでも - ジャンル : 政治・経済

00:55  |  【 想う日本のこと 】  |  トラックバック(0)  |  コメント(0)
 | HOME |  NEXT
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。